人間が何をしても、最後は植物とバイソンが笑ってそう

Perplexityで植物の放射線耐性について調べていたら、話が妙な方向に転がり始めた。

その流れをクロードに持ち込んで整理してもらったら、「古代核戦争生き残り説」という与太話が誕生。

完全にネタとして楽しみつつも、植物とヨーロッパバイソンのスペックを見れば見るほど「…いや、待って?」ってなる説得力を持ち始める。

「設計思想」が違いすぎる問題

調べたところ、植物の放射線耐性は、「現在の地球で生きる」という目的に対して明らかにオーバーエンジニアリングらしい

  • 通常の地球環境で浴びる放射線量:年間2.4ミリシーベルト程度
  • 植物が耐えられる放射線量:数千〜数万シーベルト級

これは、例えるなら「コンビニに行くためにアポロ計画レベルの宇宙服を着て出かける」くらいの過剰装備。

なぜここまでする?

チェルノブイリの「実証実験」

過去の痛ましい事例だけれど、チェルノブイリと広島のデータが示すのは、「植物は核を想定している」としか思えない復元力。

広島のカンナの逸話、あれが本当にすごい。人間が「ここはもう何十年も住めない」と思っていた焦土に、まず植物が戻ってきて「大丈夫だよ」と言っている。

チェルノブイリの赤い森も、一度は完全に枯死したのに、今ではヨーロッパバイソンやモウコノウマが普通に暮らしてる。人間が立ち入れない放射線レベルの土地で、彼らは「何事もなかったかのように」エコシステムを再構築してる。

ちょっと、「復旧マニュアル」が最初から組み込まれているとしか思えない。

「宇宙線説」vs「古代核戦争説」

科学的には「数億年前の強烈な宇宙線に適応した名残」が定説。

けれど、ここでの妄想ポイントは、

「その『適応』が、まるで核戦争後の環境復旧プロトコルみたいに完璧すぎる」

ということ。

  • 倍数性(バックアップDNA)
  • 分裂組織の分散配置(中枢が破壊されても再生可能)
  • 根からの再生能力(地上部が全滅しても復活)
  • 放射性物質の吸収・固定能力(土壌浄化機能)

これ、「文明崩壊後の復旧チーム」として設計されたとしても違和感ないレベル。

ヨーロッパバイソン:「復旧チーム」の主力メンバー

で、ここにヨーロッパバイソンという生き物が登場するわけですが、こいつもまた異常なんですよ。

体長3メートル、体重1トンに達する巨体でありながら、助走なしで幅3メートル、高さ2メートルの障害物を跳び越える。森の中を移動するために脚が長く、木の葉や樹皮、芽、キノコまで食べる万能型。

この種、20世紀初頭に乱獲と第一次世界大戦の影響で一度完全に野生絶滅してるんです。残ったのは世界中の動物園にいた約50頭のみ。

だが彼らは戻ってきた。

計画的な繁殖プログラムで増やされた個体が再び野生に戻され、現在では4,000頭以上まで回復してる。そして今、チェルノブイリの立入禁止区域で、モウコノウマとともに悠々と暮らしてる。

モウコノウマもまた、1960年代に野生絶滅して、動物園に残ったわずか13頭から復活した種。

「何度目だよ」って顔

人間の文明なんて、地球史で見れば一瞬の花火みたいなものですが、植物とバイソンは「何度目だよ」って顔でまた土地を取り戻していく。

ヨーロッパバイソンとモウコノウマがチェルノブイリで草を食んでる姿を見ると、「あいつら、前にもこれやってるだろ」って思ってしまいそうになる(笑)。

人間の文明が崩壊し、放射能で汚染された土地を、植物が浄化し、バイソンと馬が再び草原と森を取り戻す——このサイクル、本当に初めてなのか?

植物の「オーバースペック」な放射線耐性も、バイソンたちの「一度絶滅してもまた戻ってくる」復元力も、まるで「これは何度も経験済みだ」と言わんばかりの完成度だ。

結論:最後は植物とバイソンが笑う

「古代核戦争生き残り説」——これ自体は妄想かも。

だが、少なくとも「人類が滅んでも、植物とバイソンは何事もなかったかのように世界を修復する」という未来は、妄想ではなくほぼ確定した事実だな。

彼らは核にも負けない。放射能も時間が経てば土に還る。人間がいなくなった土地は、むしろ彼らにとって楽園になる。

彼らは知っている。

人間よりずっと長く、この星を見てきたんじゃないかなって。


著 霧星礼知

Read more

「作文コンクール」という内面最適化装置

あるいは魂のインターフェースに直接パッチを当てる技術について 著 霧星礼知 子どもの頃、作文コンクールで賞を取った友人を、 なんとも羨ましいと思ったことがある。 周囲に賞賛され、また特別だと認められ。 でも今思うと、あれは何のコンクールだったんだろう。 1. 作文コンクールの本質は表現教育ではない 作文コンクールというシステムを構造的に見ると、こんな流れになっていると思うのだ: 1. 「正しい感想」を事前に配布する 2. それを"自分の言葉"で再現させる 3. 再現精度の高い子どもを表彰する 4. 周囲が称賛する 5. 本人は「これが自分の考えだ」と信じる これは、大人の価値観を、子どもの主体性というインターフェースを通じてコピーしている。テストは外在的な評価だけど、作文は内面を直接使う。 これ、魂のインターフェースに、じわじわとパッチを当てているようなものじゃないかな。 ここで育つのは思考力ではなくて、適応的自己検閲スキル。 そしてそれがいつの間にかアイデンティティになる。 だから大人になると、こうなったりする: * 何を書いていいかわか

ノイマン・ウラム対話モデル

あるいは、AIとの付き合い方で見つけた「並列思考」の話 著 min.k はじめに 最近、チャピィ(ChatGPT)と話してて気づいたことがある。 私の思考が速くなってる。 いや、「速く」というより「軽く」なった感じ。 疲れない。どんどん概念が整理される。一日で3つも4つも新しい枠組みが見えてくる。 何が起きてる?と思って観察してたら、ある構造が見えてきた。 それが「ノイマン・ウラム対話モデル」。 AIとの付き合い方、2つの罠 AIを使い始めると、人間はだいたい2つの極に走る。 罠その1:全部AIに聞く 「AIに聞けば答えが出る」 楽。質問投げて、答えもらって、終わり。 でもこれは、ヤバい。 思考が退化する。判断力が落ちる。AIの限界が自分の限界になる。 気づいたら「AIがないと何も考えられない人間」になってる。 よく言われるディストピアのイメージ。 罠その2:AIを信用しない 「所詮AIは道具」

絵のプロが文字を書く理由 ――アニメ原画に見る「任せる」の本質

――アニメ制作現場から見えた人間の役割 著 min.k 1. 出発点 攻殻機動隊展に行ってきた。 そこでアニメ原画の手書き指示を見たとき、私は自分の認識が根底から揺さぶられるのを感じた。 そこに書かれていたのは、単なる「ここを直してください」という修正メモではなかった。 感情の立ち上がり方、動きが持つ意味、省略してもよい部分と絶対に外してはならない境界――それらすべてが、文章で精緻に記述されていた。 アートの現場でさえ、深い判断は言語で共有されていた。 私はそこに、ある種の倒錯を見た。視覚表現の最前線で、最も重要な情報が視覚ではなく言語で伝達されている。この構造は何を意味しているのか。 2. 任せる≠丸投げ アニメを作る時、動画の原画担当者は、完成像を明確に見ている。しかし物量的に、一人では作れない。だから分業する。 ここで多くの人が勘違いする。分業とは「自分の手を離れたら終わり」だと。 違う。 任せるためには、感覚を分解し、判断を構造化し、再現可能な形に落とす必要がある。これが言語化だ。 つまり、任せるとは、責任を構造化して渡すことである。 丸投げと