ペンフルネス──釈迦が目指した境地
釈迦は35歳のとき、菩提樹の下で悟りを開いたとされる。8年に及ぶ苦行の末に辿り着いた境地──それは、過去への執着を手放し、未来への不安を捨て、ただ今この瞬間に在ること。
ペンギンは、生まれた瞬間からそれをやっている。
ペンギンという生き物の行動を観察していると、ある種の謎に突き当たる。彼らは好奇心旺盛で、見知らぬものに臆せず近づき、カメラをつついたり、人間の足元をうろついたりする。ところが、学習という観点から見ると、どうも蓄積が弱い。
群れでロープの前を通ると、一羽目が引っかかって転ぶ。後ろの個体はそれを目撃している。それでも、二羽目、三羽目、四羽目と、順番に同じロープに引っかかって転んでいく。
「お前、見てたやんけ」と言いたくなる。でも彼らには悪意も油断もない。ただ、今この瞬間のロープとはじめまして、しているだけだ。
これを「賢くない」と断じるのは簡単だが、それは少し違う気がする。彼らは「今ここを生きている」のであって、過去の転倒を引きずる必要がない仕様になっているのだ。
ペンギンが腹ばいで滑る移動方法を「トボガニング」という。カナダ先住民のソリ「トボガン」に由来する、れっきとした専門用語だ。歩くより速く、体力も温存できる合理的な手段である。
ただし、いつ腹を使うかの基準は外からは全くわからない。地形や傾斜に関係なく、平地でも突然腹になる。かと思えば、滑りやすそうな坂でもヨチヨチ歩いていたりする。そして何の前触れもなく、スクッと立ち上がって歩き出す。
これを気まぐれと呼ぶか、それとも百万年の進化で磨かれた動物的直感と呼ぶか。いずれにせよ、外側からロジックを読み取ろうとすること自体、野暮なのかもしれない。
彼らが生きる世界は、実のところ過酷だ。海に飛び込めばシャチやヒョウアザラシが待っている。5分後に何が起きるか、まったく保証がない。
それでも、ペンギンに悲壮感はない。海から猛スピードで飛び出してきた直後、陸にいた仲間に激突する。激突した側も、された側も、特に何事もなかったように歩き続ける。命がけの帰還の0.5秒後には、もう日常だ。
過酷さを「過酷」として認識していないのではないか、と思う。抵抗もなく、嘆きもなく、ただ起きたことが起きただけ。この世界との摩擦のなさが、あのすっとぼけた表情の正体なのかもしれない。
煩悩とは、執着から生まれる。過去の失敗への後悔、未来への恐怖、他者との比較──人間はそういったものを抱えながら生きている。釈迦はそれを手放すことを説いた。
ペンギンには最初からない。ロープの記憶も、シャチへの恐怖の蓄積も、仲間に激突した羞恥心も。毎回が初回で、毎瞬間が全力で、それだけだ。
これをペンフルネスと呼びたい。マインドフルネスの、より根源的な形として。
悟りとは、努力して辿り着くものではなく、もともとそうであることに気づくことだ──という解釈が仏教にはある。だとすれば、ペンギンはとっくに悟っている。腹で滑りながら、仲間に突っ込みながら、真顔で。
涅槃ならぬ、ペ槃。
釈迦が8年かけて目指した場所に、ペンギンは生まれた瞬間から立っている。
著 霧星礼知(min.k) / 構造支援:Claude Sonnet 4.6 / AI-assisted / Structure observation