#1

私は今ではすっかり使い馴染んだコールマンのバックパックに本を詰めて、今日も図書館までの長いようで短い道程を歩く。この街に住んで7年、少々の習慣の断絶や変化を挟みながらも、私にとってこの隔週の習慣はほぼ継続されている。

図書館は丘の中腹にある。短いながらも急峻な坂を登りながら、私は考える。現代の人間は急ぎすぎる。知識を得ることに最短を求めすぎるんじゃないか。その急いだ先に、何があるんだろう?とにかく人々は効率的に物事を処理していくために、効率的に物を知っていこうとする。インターネットは、そういった調べ物には最適のツールだ。しかし、人々はそうやって節約した時間を何のために使っているのだろう?知ることの過程を省略して得られる辞書項目的な知識は、短期的な対処には向いていても、人の視野や認識を拡大することはないのに。 いいや、こんなことは、暇な人間しか考えない。ほとんどの人は、考えなくてもいいし、知らなくていいことなんだろう。

#2

図書館に着くと、まずは返却カウンターへ向かう。 読み終わった本を返却をするのが主目的だが、私の場合、借りた本が最初の貸し出し期間の限界で読み終わることは稀なので、同時に再貸出し手続きをする。今日は返却3冊、再貸出7冊だった。本を分けて積んで「こちらは返却で、こちらは再貸出したいです」と言えば、窓口の人も手慣れたもので、すぐに手続きをしてくれる。

なかなか読み終わらない本の中に、エドワード・モースの『日本その日その日』がある。これは高校時代の日本史の先生が、大森貝塚の話と共にこの著作の存在を話してくれたことがずっと頭の片隅にあったのだが、実際に読もうと決意したのは最近で、『中谷宇吉郎随筆選集』のどこかで彼に関する言及を目にしたことで、やっと借り出したものである。この文庫本は市内のいろいろな図書館に蔵書があるが、最近人気を博しているらしく、インターネットで蔵書検索をすると多くが借り出されているので驚いた。(余談だが、テレビでドキュメンタリーが放映されたり、新聞に書評が載ったりすると、貸出予約がいっぱいになっていることはよくある。)

今日は3冊の本を返却したので、新しく3冊借りることができる(Y市の図書館の貸出上限は10冊だ)。私が選んだのは、理論物理学者ジョージ・ガモフの自伝『わが世界線』、庵野秀明の対談集『庵野秀明のフタリシバイ』、ポーランド学派数学に関する書籍『無限からの光芒 ポーランド学派の数学者たち』。

最近は数学者や、その物理学への応用を理論物理学者たちに関する書物を読むことに凝っている。スタニスワフ・ウラムの自伝『数学のスーパースターたち』を読んで、彼らの思考の構造に大きな感銘を受けたことが大きいかもしれない。ガモフの自伝の前書きにはウラムが文章を寄せている。彼らの世代の文章の言葉の選び方と、それを可能にする彼らの教養が好きだ、と私は思っている(これは翻訳者の言語選択センスにしても同じことを思っている)。

#3

借り出す本の書庫からの取り出しを待つ間、図書館の丸テーブルに腰掛けて、再貸出手続きを終えたばかりの、カバーのない無骨な文庫本の赤茶けたページを開いた。これは小宮豊隆の『漱石・寅彦・三重吉』。小宮豊隆は寺田寅彦と同世代の人間で、すぐれた夏目漱石の研究や批評を残しており、漱石の全集の編纂にも携わっている。彼自身は漱石の弟子でもあるということになっていて、この本は漱石の他、彼自身が寺田寅彦や鈴木三重吉に関してものした文章を集成した書籍になっているようだ。この小宮豊隆という人物の存在も、私は『中谷宇吉郎随筆選集』で知った。中谷宇吉郎の本業が実験物理学者であることを考えたとき、彼の残した文章の話題の幅広さ、興味の幅広さには本当に驚かされる。夏目漱石をはじめ、彼の随筆を読んで手に取ろうと思った本が、実際に何冊もある。

話は少し逸れるが、私は文庫本を外出時によく持ち歩く(俳優の堺雅人が、出かけるときには2冊持つ、というのをリスペクトして)。つい最近、友人と待ち合わせているときこの『漱石・寅彦・三重吉』を読んでいたのだが、やや遅れてやってきた年の近い友人は、私からこの本を取り上げて、神妙そうな顔をして、しばらく眺めていた。赤茶色の文庫本が、彼にはなにか骨董品のように感じられて珍しかったのかもしれないし、もしかしたら、そんな本を読んでいる私自体が珍しかったのかもしれない。

『漱石・寅彦・三重吉』は、戦前に出版された書籍であるが、出版社をいくつか変え、文庫版をK書店が出版している。K書店は現在はティーン向けのライトノベルのイメージで有名だが、当時、既成の出版業界に切り込んでいこうという野心を持ち、多くの教養書を出版している。私は、スヴェン・ヘディンの『中央アジア探検記』(この本も『中谷宇吉郎随筆選集』を経て知った)の部分的な抄訳をこのK文庫で読み、その「事実は小説より奇なり」を地で行く劇的な展開に非常に感銘を受けた。(この文庫版は1953年に出版されたもので、ヘディンの著作の全文ではない。しかし、私は今の所、後年出版の手に取りやすい全訳を手にとって読むところまではいっていない。たとえ翻訳であっても、時代が異なれば言葉の重みが異なるのではないかと私は感じている。)

#4

丸テーブルで赤茶けた文庫本の読書を始めて、15分程経ったろうか。一段落ついて顔を上げると、自分の番号札が貸出カウンター上のモニターに表示されているのを確認できた。(書庫からの取り出しが終わり、準備ができているということだ。)私は本を閉じ、借り出す本と番号札を抱えてカウンターへ向かう。 貸出手続きを終えて、バックパックに本を詰めているとき、隣で同じように借り出した本の荷造りをしているおしゃれな老婦人の借りた本が目に入った。遠藤周作の、たぶん『銃と十字架』だったと思う。私は遠藤周作の世代の小説家をあまり読んでいないが、ふと、今度読んでみたいと思った。図書館にはこういう言葉を交わさない人々との交流がある。私はこの無言で無償の人間関係が好きだ。

#5

この世に存在する本を読み切ることはできない。叶わぬ夢だ。そういう台詞を充てられたアニメのキャラクターが居た。 そのとおりだと思う。その願いはまず絶対にかなわない。百歩譲って自分の読みたいと思った本だけに絞ったとしても、おそらく一生かけてもそのすべてを読み終えることはまず、できないだろう。本の虫からすれば本当に残酷な事実だが、同時に、その事実によってこそ、人間の残してきた知識の蓄積のその豊穣さに思い至る。また、過去の人間たちがこの媒体を受け継いできたことによって、現在の自分がそれを比較的自由に手に取ることができることについて、私はいつも驚嘆している。

自分の読みたい本をすべて読むことができないとわかっていても、結局私は明日も本を読んでいるだろう。本を読むことは目的地に辿り着くためにしてやっていることではない。少なくとも本を読むということは、私にとってはいつも、自分が長い旅の途中にあるということを知る行為だと考えている。

#6

図書館からの帰り道。急峻な坂を、今度は下っていく。再び、私は考える。人間はある程度、自分が一生のうちに何をするかを決めることができる。しかし、そのことを忘れている人間も多い。いや、忘れているのか?忘れているのだとしたら、彼らは自分が生きている、という実感を何から得ているのだろう。仕事?家庭?友人関係?Netflix?その何であっても、一生懸命であれば最終的にはいいということなのだろう。私の読書も、たぶん私にとってのそういうもの。 でもきっとこんなことはやっぱり、暇な人間が考えることで、ほとんどの人は、考えなくてもいいし、知らなくていいことなんだろう。