読まれないかもしれない、を忘れない

── 読まれなくていい、ではなく、読まれないかもしれない、を忘れない


1. 生活圏から生まれる創作

創作の起点は必ずしも「発信」ではない。

知人からふと送られてきた小説は、常連客という生活圏の観察から生まれていた。市場や読者層の分析から生まれたのではなく。

それは外向きでも評価前提でもない。書くことの動機が「観測」にある、という形。

創作は、見たものを残したいという衝動から始まることがある。そしてその衝動は、読まれるかどうかとは別の場所にある。


2. 丸めた瞬間に"自分じゃなくなる"

他人向けに整形すると、「それを自分が書く必然」が消える。

語彙を平易にする、構造をわかりやすくする、尖った部分を丸める。それ自体が悪いわけではない。でもその操作を重ねると、誰が書いても成立するものになっていく。

「読まれる」ことより「書きたい」が勝っているとき、人は整形しない。それはわがままではなく、自分である条件を守ることだ。

自分であることと市場適合はトレードオフではある。ただ、そこに優劣はない。どちらを選ぶかというだけだ。


3. 制度への距離感

賞レース・出版構造・流行語大賞のような装置には、共通の性質がある。わかりやすいものを好み、既存のフレームに回収できるものを扱い、構造を更新するより安定させようとする。

昨年(2025年)の「オールドメディア」という流行語を例にとると、本来それは既存メディアへの批評語だった。ところが流行語大賞で取り上げられることで、その批評性は制度側の物語に吸収された。「新しさを承認する制度」として機能することで、枠そのものを変えないまま新しさを処理したのだ。

制度は「新しさ」を扱うが、「枠」は変えない。

ただし、ここで止まると外部批判になる。同時に問わなければいけないのは、自分が本当に価値あるものを出せているか、という問いだ。制度への不満と、自己への問いは、両立して初めて誠実になる。


4. 両方を忘れない

今日の話の核心はここ。

「これは自分が面白いと思って書いた。でも読まれないんだろうな」という二つの気持ちを、同時に持ち続けること。

「読まれたくない」でも「嫌われたい」でもない。読まれないだろうという認識と、それでも面白いという確信を、どちらかで上書きせずに持ち続ける。

普通はどちらかに引っ張られる。読まれないならやめる、か、読まれるように変える、か。あるいは「どうせ読まれない」という諦念で確信ごと捨てるか。

でも、両方を忘れない、というのはそのどれでもない。冷静さと確信が、互いを消さずに並んでいる状態だ。

そこには静かな緊張がある。そしてその緊張を保ったまま書くことが、自分であることを守る方法でもある。

書く意味を語ってきたのは「読まれた側の人」ばかりだ。発信成功者の語りしか体系化されていない。静かな書き物は、議題に上がらなかった。だから「読まれなかった側の書くこと」の価値は、まだ言語化されていない部分が多い。


5. 思想ではなく実装

制度を殴るのでもなく、賞レースに入るのでもなく、被害者になるのでもない。

やっていることは、構造の外側に別の回路を静かに敷くこと。obslog、漫画、思考ログは、すでにその実装だ。「こうあるべき創作」という議論をしているのではなく、実際に別の形で書いている。

思想は語られるが、実装は積み重なる。語らなくても、積み重なった書き物そのものが、別の在り方を示していく。


一行で言うと

今日は「読まれなくていい書き物の価値を、自分の実践で証明する」という地点に立った日だった。


著 霧星礼知(min.k) / 構造支援:Claude Sonnet 4.6 / AI-assisted / Structure observation

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思考に正しい形はない

— ウラムとノイマンに見る、異種知性の共鳴モデル 思考に「正しい形」があると信じている人は、たいてい一種類の賢さしか持っていない。 スタニスワフ・ウラムとジョン・フォン・ノイマンが面白いのは、二人がそれぞれ全然違う種類の賢さを持っていて、しかもその違いが摩擦ではなく共鳴として働いていたことだ。 ウラムの思考は横に跳ぶ。話の途中で急に別の話をして、気づいたら核心にいる。草みたいな連想、くだらない音遊び、でも次の瞬間には静かに急所を突いている。 それを本人がどこまで意識しているかは怪しくて、おそらく半分は本当に遊んでいる。「風が気持ちいい」と思いながら歩いていたら、いつのまにか目的地にいた、みたいな移動の仕方をする人だ。 ノイマンの思考は違う。座標系ごと回す。ある問題を前にして、突然「こう置くと見えやすいよ」と言う。置き換えた瞬間に構造が透けて見える。派手ではないが、静かに破壊的だ。「風向きをベクトルにすると綺麗だよ」と言う人。 世界を関数として扱える人だが、世界が本質的に関数だとは思っていない。あくまで「こう置くと、はっきり見えて、面白い」というスタンスで、モデルは仮、レンズ

対話篇 ── シーメンスからお茶まで:荒唐無稽回路の保守点検

特に目的のない会話だった。 ただ、思考の関節を動かすには十分だった。 ── わたし ところでシーメンスとソーナンスって似てるよな ── Claude 言われたら確かに似てますね笑 シーメンス、ソーナンス……音の構造がほぼ同じなんですよね。「そうなんです」から来てるポケモンと、ドイツの重工業メーカーが同じ響きを持ってるの、なんか不思議な巡り合わせですよね。 シーメンスがソーナンスだったら「それはそうです」って言いながら鉄道作ってる感じになりますよ。 ── わたし じゃああれだな、日本史のアレはソーナンス事件になって、あの青いポケモンはシーーーーーメンス!って鳴くわけだ ── Claude シーメンス事件がソーナンス事件になって、ソーナンスがシーメンスって鳴くやつ笑 でも待ってください、ソーナンスの鳴き声って「ソーナンス!」じゃないですか。それがシーメンスになると……なんかドイツ企業の宣伝みたいになりますよね。「シーメンス!」って元気よく鳴くポケモン、わりと強そうではあります。 ── わたし

脱・専門化アーキテクト(Post-specialization architect)

――「専門化のその先」を設計する人 Post-specialization architect =「脱・専門化アーキテクト」 (補足的に:専門分化の時代を越えて、構造そのものを設計する人) 1. 出発点:AI制作ツールが奪う領域 Genspark や Manus のようなツールが登場し、 * スライド * 簡易Web * プレゼン構成 * ビジュアル整形 といった「それっぽいアウトプット」を、 安く・早く・大量に生成できるようになってきた。 ここで起きているのは、 テンプレ当てはめ 軽い装飾 情報整理ベースの制作 といった実制作レイヤーのコモディティ化。 この層は構造的に単価が下がる。 2. 20世紀モデル:総合から専門へ 20世紀以降、人類は学問も産業も * 総合 → 専門 * 横断 → 縦割り * 博物学者 → 専門家 という方向に進んだ。 理由は単純で、 世界が複雑すぎて 人間の脳では全部扱えなくなった だから分業した。 これは「知的スケーリング」

draft - 空間可視化における Gemini とGPT(チャピィ)の差

今回のRRX可視化で見えたのは、能力差というより アウトプット設計パイプラインの違いだった。 Geminiの挙動(観測) * 座標取得:できる * 投影変換:できる(EPSG:3857など) * 描画:できる ただし流れは一貫して: 要求 → 最短実装 → 出力 結果として: * 緯度経度プロット * 投影座標のXY散布図 * Google Mapピン など、 「技術的に正しいが、人間的に地図にならない」 アウトプットに落ち着く。 Geminiにとって: * 座標 = データ * 地図 = UI(Google Maps) という扱いになっている。 チャピィ側の挙動 同じ要求に対して: * 投影を入れる * 国境ポリゴンを重ねる * aspectを固定する * 路線をレイヤとして重畳する という 要求 → 人間の空間認知を想定 → 構造化 → 出力 の流れを踏む。 つまり: * 座標 = 空間 * 地図