「作文コンクール」という内面最適化装置
あるいは魂のインターフェースに直接パッチを当てる技術について
著 霧星礼知
子どもの頃、作文コンクールで賞を取った友人を、
なんとも羨ましいと思ったことがある。
周囲に賞賛され、また特別だと認められ。
でも今思うと、あれは何のコンクールだったんだろう。
1. 作文コンクールの本質は表現教育ではない
作文コンクールというシステムを構造的に見ると、こんな流れになっていると思うのだ:
- 「正しい感想」を事前に配布する
- それを"自分の言葉"で再現させる
- 再現精度の高い子どもを表彰する
- 周囲が称賛する
- 本人は「これが自分の考えだ」と信じる
これは、大人の価値観を、子どもの主体性というインターフェースを通じてコピーしている。テストは外在的な評価だけど、作文は内面を直接使う。
これ、魂のインターフェースに、じわじわとパッチを当てているようなものじゃないかな。
ここで育つのは思考力ではなくて、適応的自己検閲スキル。
そしてそれがいつの間にかアイデンティティになる。
だから大人になると、こうなったりする:
- 何を書いていいかわからない
- 自分の声が見えない
- 評価が怖い
自分の声が聞こえないのは、声を出す訓練をしてこなかったからじゃない。
他人の声を「自分の声」だと信じ込む訓練を、繰り返してきたから。
2. 教育はノイズキャンセルをかけている
突然ですが、戦争の現実って、こういうものだと思うんです:
- 利害が複雑に絡み合っていて
- 全員が少しずつ被害者でもあり加害者でもあり
- 偶然と誤算だらけ
完全に高ノイズで高次元の現象。
でも教育はそれを処理できないから、こう単純に圧縮しがちだなと:
「戦争は悲しい」
「平和は大切」
これは優しさというより、思考コスト削減アルゴリズムに近いんじゃないか。
しかも消されている"ノイズ"こそが本体だったりして:
- なぜ起きたのか
- 誰が得をしたのか
- どういう力学だったのか
感想で閉じると、構造が消える。
残るのは感情だけで、感情は次の構造を予測できない。
3. 善悪の軸に立つと、対処が見えなくなる
感動や善悪は、人間として大事なもの。
でもそれは評価の軸だってことを忘れたらいけない。
現実を直すのに必要なのは、構造の軸だ。
善悪での判断モードに入ると:
- 陣営ができる
- 感情が正当化される
- 思考が止まる
「誰が悪いか」は見えるけど、「どう直すか」が消える。
戦争は、正義と悪ではなく、勝者と敗者として記述されている方が冷静だ。
これは冷酷な視点じゃなくて、構造記述。
善悪を一旦手放すことで、はじめて力学が見えてくる。
4. 感動や倫理は"贅沢品"である
感動や善悪って、実はこういう条件下でのみ成立するって部分がある:
- インフラがあって
- 治安があって
- 明日が保証されている
つまり、安定した現実の副産物。
順序はこうで:
現実
↓
構造
↓
感情と倫理
逆にすると:
感情
↓
正義
↓
現実クラッシュ
感情を先に置くと、構造が見えなくなって、現実が壊れる。
5. 採用面接は出荷検査ではないか
企業の採用って、多くの場合、人を見る場じゃなくて正規プロダクト検品工程なのかもしれない。
- 空気が読めるか
- 仕様に合うか
- 摩擦を起こさないか
これは、作文コンクールの成人版に見えなくもない。
ここで生まれるのは、優秀な人というよりも「最適化くん」だったりする。
評価軸に即座に適応して、探索しない人格。
自分の違和感よりも、他人の期待を優先する存在。
6. 量産→高級も、同じ檻である
多くの人は、こう動く:
量産で疲れる
↓
高級を目指す
↓
成功した気になる
でもそれって、檻の中で部屋が広くなっただけかもしれない。
独裁国家から脱出したと思ったら、その首都の高級住宅街だった、みたいな。
「勝ち組になる」こと自体が、すでにゲーム内行動。
ゲームを変えたわけじゃなくて、ゲーム内での順位が上がっただけ。
7. ここ(obslog)の位置
ということで、このobslogは:
- 評価されない
- 正解がない
- 感動を狙わない
ただ:
- 違和感を書く
- 構造を見る
- 未整理のまま出す
これは思想を植える場じゃなくて、初等思想統制を剥がすリハビリ施設みたいなものだったりする。
作文コンクールで上書きされた「自分の声」を、もう一度、掘り起こすための場所。
結論
教育→就活→企業というレールは、こういう一本道だけが用意されてる:
量産 → 高級
でも、世界にはその外側がある。
量産品も高級品も、競争している。
でも変異体は競争しない。後から分類される。
これは、教育批判じゃなくて、主体回収の記録。
檻の内装変更じゃなくて、壁の材質チェック。
もうすぐ、国境を越えていけそうだ。