思考に正しい形はない
— ウラムとノイマンに見る、異種知性の共鳴モデル
思考に「正しい形」があると信じている人は、たいてい一種類の賢さしか持っていない。
スタニスワフ・ウラムとジョン・フォン・ノイマンが面白いのは、二人がそれぞれ全然違う種類の賢さを持っていて、しかもその違いが摩擦ではなく共鳴として働いていたことだ。
ウラムの思考は横に跳ぶ。話の途中で急に別の話をして、気づいたら核心にいる。草みたいな連想、くだらない音遊び、でも次の瞬間には静かに急所を突いている。
それを本人がどこまで意識しているかは怪しくて、おそらく半分は本当に遊んでいる。「風が気持ちいい」と思いながら歩いていたら、いつのまにか目的地にいた、みたいな移動の仕方をする人だ。
ノイマンの思考は違う。座標系ごと回す。ある問題を前にして、突然「こう置くと見えやすいよ」と言う。置き換えた瞬間に構造が透けて見える。派手ではないが、静かに破壊的だ。「風向きをベクトルにすると綺麗だよ」と言う人。
世界を関数として扱える人だが、世界が本質的に関数だとは思っていない。あくまで「こう置くと、はっきり見えて、面白い」というスタンスで、モデルは仮、レンズは交換可能、という前提がある。
形式を信じていないから、形式を作れる。形式を信じている人は、それが壊れたとき一緒に崩れる。ノイマンが量子力学の定式化をやり、ゲーム理論をやり、計算機アーキテクチャをやり、と全然違う場所に次々と移動できたのは、どの形式にも定住しなかったからだと思う。テントを張るが、住まない。
ウラムが脳炎で倒れたとき、周囲は本気で「戻らないかもしれない」と思った。開頭手術まで受けて、実際にかなり危うい状況だった。
復帰後、ノイマンがしたことは、感情的な励ましではなかった。難しい数学の問題を投げた。「これ解ける?」「次は?」
傍から見れば冷たい。でもこれは優しさの別の実装だったと思う。ノイマンは人格に働きかけるのではなく、思考の位相そのものに語りかけた。「あなたはまだそこにいますか」という確認を、問題という形で差し出した。
ウラムはおそらく「なんでそんなことをするんだろう」くらいの温度感で受け取っていた。ここに二人の非対称性がよく出ている。ウラムは感情と思考が混在したまま動く人で、ノイマンは感情を別の言語に翻訳して渡す人だった。どちらが深いとか浅いとかではなく、ただ、経路が違った。
彼らはおそらく、観測した事象全てのうち、生前、論文に書かなかった事象の方が多かった方。
見えている構造が複数ある。一つを書けば固定される。世界がそれをどう受け取るかも、だいたい見えている。だから「出せるけど、出さない」という選択ができた。これは保身ではなく、むしろ誠実さの一種だ。構造が見えているからこそ、一つに固定することの暴力性を知っていた。
多くの研究者がそれをできないのは、能力の問題ではない。見えている構造が一つで、それを成果にしないと次がない、という状況に置かれているからだ。出す/出さないを選ぶ余裕がないとき、人は書かざるを得ない。
二人の本体は、論文ではなかった。草、脱線、連想、急な核心、またずれる、でも少し近づいている、という中間状態にあった。
内部では無邪気に跳び、外部では慎重に切り出す。自由な思考と責任ある公開の二層を、同時に保っていた。どちらかが主でどちらかが従、ではなく、両方が本物だった。
跳んでいるときが本物で、切り出しているときは仮、という話ではない。切り出す慎重さも、跳ぶ無邪気さと同じくらい、彼らの思考の一部だった。
著 霧星礼知(min.k) / 構造支援:Claude Sonnet 4.6 / AI-assisted / Structure observation