未処理のままで

著 霧星礼知


担当が決まったのは、十一月の末だった。

エリア整理推進課という名前は、それだけで何かを終わらせるために作られた部署に聞こえる。実際、内容はそのとおりで、山間部の交通・医療・行政サービスを順番に見直して、維持コストと残余人口を天秤にかけ、「ここまでやめます」という結論を出す仕事だった。

三浦颯太は二十九歳で、特に志願したわけでも配置を嫌がったわけでもなかった。課内では若手の合理派として認識されていた。感情論を出すとコスト計算が滑ると思っていたし、その思い方は今も変わっていない。

最初の現地調査のために山へ向かったのは十二月の第一週、霧雨の朝だった。

高速を降りてからの道は、地図アプリが三回ルートを修正した。ため息まじりでたどり着いた集落手前のコンビニで一息つこうと、いささか広過ぎる駐車場に車を停め、店の中に入ったとき。

レジ横の電子レンジの前に、一人の男が立っていたのが目に入った。

三十代か四十代か判然としない外見で、くたびれた作業着風のジャケット、缶コーヒーを両手で包んでいた。温めるわけでもなく、食べるものを待つわけでもなく、ただ電子レンジの正面に立ってぼんやりしていた。

三浦は会計を済ませて外に出た。特にそれ以上、気にしなかった。


訪れてみた集落は予想より静かだった。

人口台帳には五十二名とあったが、実感としては三十名程度の気配しかなかった。廃屋が道の両脇に点在し、郵便受けに詰まった紙が風化して模様になっていた。

霊山の登山口には鳥居があった。案内板によれば、山中には六世紀から続く社があり、一時期は西日本有数の霊山として栄えたと書いてあった。今は登山道のロープが腐りかけている。神社庁への届け出は二十年前に途切れていた。

三浦は写真を撮ってメモをとった。

帰りに同じコンビニへ寄った。

電子レンジの前に、先ほどと同じ男がいたのに気がついたが、特に気にしなかった。


三回目の調査で、その男と目が合った。

向こうが会釈した。なぜか三浦も会釈を返した。

「調査の人?」と男は言った。声は低くもなく高くもなく、特徴のない声だった。

「そうです」

「あの山、どうなるの」

「まだわかりません」と三浦は答えた。嘘ではなかった。「現状調査の段階です」

男は缶コーヒーをポケットに押し込んだ。BOSSのオリジナルだった。「そっか」と言って、それ以上は何も聞かなかった。

三浦は少し迷ってから、「お近くの方ですか」と聞いた。

「まあそんな感じ」

それだけだった。


彼の名前を聞いたのは、四回目の調査の時だった。

「上田です」と男は言った。「かみた、って読む」

「三浦です。颯太」

上田は「ふーん」と言って缶コーヒーを開けた。プルタブの音がコンビニの入り口で小さく響いた。

その日の帰り道、三浦は資料整理をしながら霊山の沿革を改めて読んだ。

その霊山の創建は、推古朝と伝わる。修験の山として成立し、参道は町、坊、山頂の三層で構成されていた。山に入るほど立場が変わる構造で、下界と頂上の間に複数の区切りがあった。江戸期には地元豪農が講を組んで石段や石垣を整備し、寄進によって参道のインフラが維持されていた。

明治の神仏分離令で、山に住んでいた者たちはまとめて降ろされた。組織は分断され、山はほぼ空白になった。

ただし、ここで終わらなかった。大正から昭和初期にかけて、山麓まで道路と簡易鉄道が敷かれた。元々は石材と木材を運ぶための路線だったが、ついでに人も動くようになった。「観光霊山」として再編された記録が残っており、参詣客と物資の流れが戻り、しばらくは賑わいもあったらしい。

戦後の過疎化で再び人が減り、路線も廃止された。参拝者は激減。常駐神職が途絶えたのが平成初期、法人格の消滅が二〇〇〇年代半ばだった。

地域住民へのヒアリング記録にこういう証言があった。「山には何かいる気はするけど、もうお参りはしていない。する意味がわかんなくて」

三浦はそれをファイルの「文化資源・参考」フォルダに入れた。


十二月の三週目、コンビニの外の縁石に上田が座っていた。三浦は缶コーヒーを二本買って一本を渡した。

「これ、奢り?」

「まあ」

上田はBOSSじゃない方を選んだ。「銘柄違うじゃん」と言った。

「こだわりないんで。嫌でした?」

「いや、これでいいけど」

二人でしばらく飲んだ。霧が低かった。山の輪郭が雲に溶けていた。

「上田さん、あの山のこと、詳しいですよね」

「まあね」

「最盛期って、どんな感じだったんですか」

上田は缶コーヒーを見てから言った。

「朝は石段の途中で人が詰まってた。洞みたいなとこに籠もる人も多かったし、下りてきたときは"生まれ直し"って言われてた」

三浦は少し意外に思った。「観光じゃないんですね」

「全然。あれは修行だよ」

上田は続けた。「参道も、便利だからって理由で、あの線なんじゃない。ちゃんと段階があってさ。町、坊、山頂。登るごとに立場が変わる」

「結界みたいな?」

「まあ、そんな感じ」

少し間があった。

「石段とか石垣とか、ああいうのはだいたい地元の金持ちが出してた。講とか組んでさ。偉い人より、そっちがやってた」

「地域で支えてたんですね」

「そう」

上田は一拍置いて言った。「で、一回ぜんぶ切られた」

三浦は顔を上げた。

「神と仏を分けるって言われて。住んでた人たち、まとめて降ろされた」

少し風が吹いた。

「それで?」

「それで、ほぼ空っぽ」

上田は缶を開けた。「でもそのあと、道と線路が来た。石とか木とか運ぶためだったけど、ついでに人も戻ってきた」

「一時的に?」

「一時的に」

上田は肩をすくめた。

「……そこまで分かるんですか」

「見てたから」

三浦は何も言えなかった。そのとき初めて、距離感じゃない何かを感じた。視点の高さだった。

上田は最後にぽつっと言った。「分けたつもりでも、残るんだよ」

缶が空になった。

「……霊山の、神様だったんですか」

声に出たのは、考える前だった。

上田は缶を縁石の横に置いた。

「それ、やめて」


次に会ったとき、三浦は無意識に言っていた。

「今日は、どうでしたか」

上田は一瞬だけ黙った。

「……ねえ、距離できてない?」

三浦は自分の口を触った。

「すみません」

「ほら」

上田はため息みたいに笑った。「そういうとこ」

三浦は何か言おうとしてやめた。

上田は缶コーヒーを買って、縁石に腰を下ろした。「別に、怒ってないけどさ。それ、やられると俺のほうが気使う」

三浦は少し考えてから、「じゃあ……上田さん」

「それも微妙」

上田は言ってから、自分でおかしくなったみたいに笑った。

三浦も笑った。

二人でコーヒーを飲んだ。


上田はその日の午前中、山のほうへ歩いていったらしかった。戻ってきたとき、靴の縁に赤土がこびりついていた。

書類を確認している三浦の隣に来て、意味のない付箋を一枚貼る。

「このルート、通れないよ」

「なんで」

「斜面、割れてる。上から水回ってる」

三浦は眉をひそめた。昨日の図面では問題はなかったはずだった。

午後に現地を確認すると、法面の上部に細い亀裂が走り、路肩の土がわずかに沈んでいた。三浦は予定していたルート案を一つ消した。

「誰も気づいてなかったです」

三浦が言うと、

「まあ、見てる人少ないし」

と上田は答えた。

「ちゃんと、仕事してますね」と三浦は聞いた。

「いや、してない」

「じゃあ、何してるんですか」

「いる」

「いるだけ?」

「うん」

三浦は「そうですか」と言って話を終えた。


年が明けた。

行政の会議では、このエリアの路線バスと診療所の整理案が俎上に乗り始めた。人口予測をもとにした試算では、維持継続の費用対効果は最低水準だった。

三浦はデータを整理しながら、感情的な結論には持っていかないように心がけた。それは今も変わらなかった。

上田に現状を話したことがあった。

「上がどう判断するかはわかりません。でもデータ的には、厳しい」

上田は缶コーヒーをしばらく眺めてから言った。「まあ」

「……まあ、って」

「まあそうなんじゃないの。でもどうなるかわからないじゃない」

「それは、そうですが」

「そうじゃない」と上田は言った。「わかんないものは、わかんないままにしておいた方がいいってこと」

三浦はメモを取らなかった。


二月に入ってから、上田が現れなくなった。

一週間。二週間。コンビニの電子レンジ前は空だった。縁石に誰もいなかった。

三浦は気にしないようにした。気にする理由が特にないと自分に言った。


最終的な存廃会議は二月の第三週だった。

会議室に資料が積まれた。発言が続いた。維持の費用、廃止後のカバー範囲、代替手段の実現性。数字が並んだ。

三浦は担当として資料を説明した。感情を持ち込まなかった。データを読み上げた。

沈黙があった。

誰かが言った。

「まあ……残しますか」

声に温度があったわけでもなかった。大きな意志があったわけでもなかった。ただ、その言葉が出た。

三浦も同意した。

会議は終わった。


数日後、最終確認のために現地を訪れた。

バス停の前で書類を確認していた。霧はなく、山がはっきり見えた。

もう一つ、はっきり見えたものがある。

少し離れた場所で、制服姿の子と上田が話していた。

「なくなったら、困る人おると?」

「君とか」

「……あー」

少し間。

「じゃあ、残るね」

上田は小さく笑った。

三浦は声をかけなかった。

書類を見ながら、理解した。

自分は選ばれていない。

上田は、切れていない心のあちこちに現れる。自分のところに来たのは、たまたまそこに「まあ」と揺れる隙間があったからだ。山にいるわけでもない。祈りの中にいるわけでもない。判断が揺れる瞬間の、あの小さな隙間にいる。

そういうものだと思った。


バスが来た。

乗り込んで、座席に着いてから、コートのポケットに何か入っていることに気づいた。

缶コーヒーだった。温かかった。BOSSのオリジナルだった。

誰が入れたかはわからなかった。

窓の外を見ると、上田が遠くに立っていた。軽く手を振っている。

三浦は、手を振り返さなかった。口も開かなかった。

バスが動き出し、曲がり、上田は見えなくなった。

ポケットの温かさだけが残った。

三浦はそれを持ったまま、窓の外を見続けた。

山が遠ざかった。

霧はなかった。


著:霧星礼知(min.k) / 構造支援:Claude Sonnet 4.6 / AI-assisted / Structure observation

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