人間関係の中で、「実際の相手」ではなく、自分の中にある、その人の作り上げた物語のイメージの中の相手と会話している、というタイプの人がいる。
これは、前職での経験だ。
同僚たちのあるグループと仕事をした時、私に対して、いつまでも「自分が教えてあげなければならない存在」であることを前提に接してくる人たちがいた。
実態としては私が仕事を回していたので、こちらから進め方を提案する場面の方が多かったのだが、彼らは自分たちが望まない発言について、まるで私が何も言わなかったかのようにスルーするのである。しかもそれは嫌味やいじめのな形で行われるのではなく、会話の中で穏やかに自然に、しかし、私の発言は確実に存在しなかったものとして、話題が移っていくのである。
その人たちとの付き合いはもうないが、今になって考えてみると、それは情報量や感情量を減らすための処理だったのかもしれない。
本来、人間をちゃんと見るということは、かなり負荷が高い。
相手は変化するし、矛盾もするし、思い通りにならない。
時には、自分を傷つけてくることもある。
そこで相手に、
「恋人役」
「最高の理解者役」
「かわいい後輩役」
というような役割を与えて固定化すると、急に処理が軽くなる。
つまり、相手を“生きた他人”ではなく、管理可能なキャラクターとして扱えるようになるのである。
私が経験した人間関係でも、彼らはこちらに対して、ある種の後輩としてのイメージを持っていた(持ちたがっていた)。
だから、こちらが違う反応をしても、都合のいい部分だけ拾ったり、言っていない感情を補完したり、逆に明確に伝えたことを消したりする部分があった。
そこでは、目の前にいる「私」という人間は、彼らの中の物語の配役になってしまっていたのである。
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相手をある種のキャラクターとして見ること自体は、人間の神経の省エネとしては合理的だ。
しかし、人間関係としてはかなり危ういものにもなり得る。
それは、相手本人ではなく、自分の内部に作った役割の方を、「その人自身」だと本気で思い始める構造を孕んでいるからだ。
そして、現実の相手が少しでもそこからズレると、急に不機嫌になったり、「理解されていない」という感覚が強くなったりする。
相手が実際にどうだったかより、「この人はこういう人であるはず」というイメージを優先し、矛盾する情報を見なくなっていく。
思い込みが強い人ほど、相手を管理可能なキャラクターに固定する力も強い。
もしお互いが、互いの内部モデルの中にうまく収まり合ってしまったなら、摩擦は少なくなる。
現実を直視しなくて済む関係として、安定してしまうのである。
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以前、相手を知ろうとするということは、「相手には自分とは違う内側がある」という前提があって初めて成立する行為だ、というような話をした。
しかし、その前提自体を持っていない人は、相手についてちゃんと確認しよう、という発想そのものが出てこない。
相手を、既知の変わらない存在として扱っているからだ。
だから、確認したり更新する必要がなくなっている。
そこが少し怖い。
ただの決めつけなのに、「自分は相手をわかっている」と思い込んでいる。
知ろうとしていないのに、知っているつもりになっている。
そういう人は、自分の確信が揺らがない限り、相手を見ようとしない。
しかも、物語の中に閉じこもれば閉じこもるほど、人と向き合う動機そのものが失われていく。
人と接している感覚はある。
けれど実際には、誰とも接触していない。
それは、相手を見ることを最初から放棄している状態だ。
摩擦がないのも、相手との関係が良いからではない。
ただ、相手と接触していないからなのである。
相手と接触していないのに、相手と繋がっていると思っている。
相手の形をした内部モデルの中で完結しているのに、相手と深い関係があると思っている。
それで孤独ではないと思っている。
全部、同じ構造だ。
しかも本人には、それが見えない。
ちょっと現代のホラーだよね。