ここのところ、自分が人に比べて、悩んだり悲しんだりすることが多いことに疲れていた。
けれど最近は、悩んだり悲しむことができてることに感謝したいと思っている。人に優しくなれる。優しくなりたいからそうしてるのだと。
そこに辿り着くのに、相当なものを経てきたな、と自分で思う。
諦めでも強がりでもなく、本当に視点が動いたという実感がある。
正直悩んでない人に比べて、自分は損してると思ってた。でも、こういうふうに悩んでるから自分は人に優しくなれるのだ、とふと思った。
それがちゃんと体で腑に落ちた、という感じ。
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怒ったりしないとか、悩んだり悲しんだりしないということは、ある場面では多分、他人に関心が持ててないということでもあるんじゃないか。
そう言った感情の痛みを知ってるからこそ、他人の痛みに気づける。他者に共感したり関心が持てるのは、自分の中にそれと響き合うものがあるから、ということ。
逆に、意識してるかはともかく、怒ったり悩んだり悲しんだりと言った、摩擦がない生活をしてるということは、生活の中で自分が見たいものしか見てない可能性がある。
摩擦がないのが、能力なのか、単に回避してきた結果なのか、本人には見えにくい。見たいものしか見ていないと、悩む素材そのものが入ってこないから。
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悩まないのではなくて、悩めない。
相手に怒らないのではなく、怒れない。
「やらない」には選択がある。「できない」には、そもそも、その回路がない。
優しさも、怒りも、悩みも、全部その感情が動く人間にしか出てこない。
恋人関係でいうなら、恋人に対して怒りが湧かない、というのは、幸せなこととは限らないのだろう。怒る回路がないのは、相手に優しさ「しか」見せないだけ、というだけの可能性がある。
怒りが湧かないのは、相手をちゃんと見ていない証拠かもしれない。
本当に関わっていれば、摩擦が生まれる。怒りも含めて感情が動くのは、相手を実在として受け取っているからだ。穏やかなだけの関係は、安全ではなく、薄い可能性があるのだ。
穏やかに見えて、実は薄い関係を長期契約したものが、少なくない数の関係性の実態かもしれない。
表面の摩擦のなさが、深さの証明にはならない。
衝突できる関係の方が、むしろ本物に近い。
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だからこそ、悩んだり怒ったりできる自分に感謝したいと思ったのだ。
自分自身にも、相手に対しても。
摩擦を起こせる自分に感謝したい。
それは本当に豊かなことだと思うからね。