最近、『ほんとうのことを書く練習』(土門蘭:著、ダイヤモンド社、2026年)という書籍が気になっている。
本の概要によると、著者は「ほんとうのことを書く」とは、自分を知ることだ、ということを書いている。著者は、世界はわからないことだらけで、だから死にたいとも思ってきた。それでも「わかること」を書き続ける間は、生きていられると知った。誰かに愛されるためではなく、自分に愛された先の言葉を紡ぐために書く――その一点を、静かに、丁寧に言語化した本、らしい。
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私はまだこの本を読んでいない。それよりも、本を取り巻くある現象が気になっていた。
この本へのレビュー評価は、「この姿勢を自分も生きたい」という実践的支持だけではなく、「こういうことを言語化してくれてありがとう」という、“代弁への感謝”がかなり大きいようなのである。
特に、実際に執筆をしている人、つまり「書くことを職業にしてきた人」が、強く反応しているレビューをいくつも見つけた。
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レビューを読んでいると、彼らが「ほんとうのことを書けない」のは、才能不足ではなく、職業構造・関係構造・評価構造の問題のようだ。
ライター業は、本質的にかなり、「ほんとうのこと」を書くより、「成立する文章」を書く訓練が積み上がっていきやすい。
相手を傷つけない、対象の価値を上げる(あるいは下げる)、読みやすく整える、魅力を抽出する、依頼主との関係を壊さない。
するとだんだん、「これは自分の言葉なのか?」それとも「読まれるための言葉なのか?」の境界が曖昧になっていく。
たぶんこの本に執筆業の人が強く反応するのは、そこに日常的な苦しさがあるからだと思う。
しかも厄介なことに、商業ライティングの世界には「書かされる側」ほど文章が上手くなる構造がある。
相手が喜ぶ言葉、美しく見える構文、空気を壊さない温度、読みやすい起承転結、そして極め付けはSNSで反応される感情線。
読まれようという方向性を追求しようとすると、これらを大量に学習し、自分の中に取り入れる道は避けられない。
でも、その技術が高まるほど、逆に「ほんとうのこと」が見えにくくなる。
長年「魅力的に書く技術」を積み上げてきたからこそ、逆説的に“加工された言葉の匂い”に敏感になっている。
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だから、私がこの本を取り巻く状況で面白いと思ったのは、この本が「文章初心者」より、むしろ“文章に適応しすぎた人”に刺さっているという現象を観測できたことだ。
書く技術がない人ではなく、書く技術が身体化してしまった人。
そして、その人たちが、「ほんとうのことを書きたい」と言っている。
そこには、「表現の自由」というより、「表現から自分を取り戻したい」に近い切実さがある気がしたのだ。
そういう人ほど、「ほんとうのこと」をつかめていない、書けていないという自覚があるのだろう。
機械のように文章を作り出している自分を見て、さらにはそれを代行するAIの登場で、「自分じゃなくてもいいのではないか」と思っている、という時代特有の背景もあるかもしれない。
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この本の立ち位置は、文章を書くこと全体の世界観のなかでは、手前ではなく、むしろ、「うまくなりたい」という気持ちの先にある本だと思う。
一応、この本には、書き方の技術のようなものは載っているようだ。
でも誠実な読者なら、すぐに問題はそこではなくて、自分のなかにそもそも「言葉」が足りないことに気がつくのかもね。
自分を表現するための語彙やその組み合わせがない、と。そこからが本当の勝負なんじゃないか、とふと思った。
この本は、入り口を開いてくれる本ではある。その先をつかめるかは、その人次第。
この本を読んで、代弁されて救われて、そこで止まってしまう人も多いと思う。
先まで見える人が増えるといいね。読んでないけど。
ごめんなさい。ちゃんと読んだら感想も書きますね。