世の中は、できる人を褒める。
頑張れる人を評価する。
もっとできるようになれと励ます。
それ自体は間違いではない。能力があり、努力ができる人が社会を支えている側面は確かにある。
しかし、「できる人」であることによって生まれる問題については、あまり語られない。
例えば、こういう人の話がある。
仕事で求められることの多くは理解できるし、頼まれたこともそれなりにこなせる。だから長い間、「能力が足りなくて困る」という経験はあまりなかった。
ところが近頃になって、別の問題に気づく。
能力があることと、それを持続可能な形で運用できることは、まったく別の話だったのだ、と。
きっかけは、ある体調不良の日。
布団から起き上がるのがしんどい。
頭は動いている。考えることもできる。
しかし身体がついてこない。
こういうとき、昔のその人なら、無理にでも起き上がろうとしていただろう。
頑張ればできるからだ。
だが、その考え方には一つ問題がある。
頑張れる人は、「頑張れること」を基準に人生を設計してしまうのである。
できる人には、仕事が集まる。
本人もそれをこなしてしまう。
すると周囲はさらに期待する。
そして本人も、「自分はできる側の人間だ」という認識を強めていく。
問題は、その状態が長く続くと、自分の運用条件を考えなくなることだ。
できるから引き受ける。
できるから断らない。
できるから何とかする。
その結果、自分の時間や体力を管理するという発想そのものが育たない。
若い頃はそれでも何とかなる。
しかし年齢を重ねると、人生には能力だけでは突破できない制約が増えていく。
体調の波。体力の低下。
集中力の変動。家族との時間。
やりたいことの増加。
それでもなお、「頑張ればできる」を基準にしていると、自分を責めることになる。
今日は疲れている。でも頑張ればできる。
だからやらなければならない。
できなかった。
自分が悪い。
こうして、運用条件の問題が自己評価の問題にすり替わる。
この記事内容を、「頑張らなくていい理由」として利用する人もいるだろう。
だが安心してほしい。
本当に頑張らない人は、こういう理論があろうとなかろうと頑張らないのだから(笑)。
私がここで書いているのは、そういう人の話ではない。
頑張ることができてしまう人の話である。
頑張る力は才能である。
だが、それは手放しに賞賛できるものでもない。
頑張れるから無理ができる。
頑張れるから抱え込める。
頑張れるから限界を見失う。
それは能力であると同時に、足枷でもある。
能力は発揮するだけでは足りない。
運用しなければならない。
頑張ることを覚えるのは若い頃の課題。
頑張りすぎないことを覚えるのは大人の課題。
『できる人』ほど向き合わない問題とは、自分の限界の話ではない。
自分の能力を、どのような条件で使うのかという設計の話なのである。