K-POPを見ていると、「なんでもコンテンツにしてくるな」と感心することがある。
アイドルだけではなく、バックダンサーが番組に出る。
振付師がスターになる。
ダンスクルーがIPになる。
練習生の成長過程がサバイバル番組になる。
メイクや衣装、ヘアスタイリングの裏側が動画コンテンツになる。
レコーディング風景や振付練習が、完成品とは別のコンテンツとして消費される。
ファンのリアクションや、他アーティストによるカバーまで拡散の一部になる。
リアクション動画やダンスチャレンジまで含めて、一つの作品の周辺が次々とコンテンツ化されていく。
日本の感覚からすると、どこか商売っ気が強く映る。
しかしそれは、韓国エンタメが強欲だからというより、収益化への圧が極めて強い産業だからなのかもしれない。
韓国は、国内市場だけで巨大なエンタメ産業を維持できる国ではない。
人口規模も市場規模も限られている。そのなかで音楽や映像を産業として成立させるためには、最初から海外市場を見据えなければならなかった。
つまり、ヒットを出すだけでは足りない。
ヒットから、できるだけ多くの価値を回収しなければならない。
アイドルが売れるなら、振付も売る。振付が売れるなら、ダンサーも売る。ダンサーが売れるなら、番組にする。番組が売れるなら、海外展開やコラボレーションにつなげる。
一つの成功を点で終わらせず、面に広げていく。
それは商売上手というより、限られた市場のなかで次の投資を生み出し続けるための産業設計なのだと思う。
だからK-POPには、ある種のせわしさがある。
熱が生まれたらすぐに回収し、次へつなげる。余白を残して熟成を待つというより、熱量そのものを循環させていく。
その姿は、ときに息苦しく見える。
人までIPになり、舞台裏まで商品になり、あらゆるものがコンテンツへと変換されていくからだ。
けれど、その背景には「なんでも売りたい」という単純な欲望だけでは説明できないものがある。
文化を輸出しなければ産業として成立しにくい国が、生き残るために磨き上げてきた仕組み。
私たちはそこに、商売の匂いを感じているのかもしれない。
あるいは、限られた市場条件のなかで文化を産業として成立させようとしてきた、一つの切実さを見ているのかもしれない。