さくらももこと、いがらしみきおには共通点がある。
それは、人を書いているようでいて、実は「人間関係が長年積み重なった時の空気」を書いていることだ。
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世の中には記号的な人物描写がある。
厳格な父親。
自由な母親。
変わり者の友人。
卑怯なクラスメイト。
説明としては分かりやすい。しかし現実の人間は、そんなに整理されていない。
例えば『ぼのぼの』のアライグマくんの両親。
アライグマくんのお父さんは、旅好きの妻に振り回されている。ある場面で彼は「どうせまた行くんだろお前は!」と怒鳴る。するとお母さんは「また行く」と答える。次のコマでは、お父さんが一人で巣穴の中でイライラしている。
これは「自由な母親」と「苦労する父親」の話ではない。
本当に描かれているのは、何度も同じやり取りを繰り返してきた夫婦の空気だ。
お父さんは妻が旅に出ることを止められないと知っている。お母さんも怒られることを知っている。それでも旅に出る。お互いを理解しているのに、理解した上で噛み合わない。
その空気が妙にリアルだ。
ヒグマくんのお父さんも同じだ。
土佐弁で豪快で、筋を重んじる。記号的に描けば「昭和の頑固親父」になる。しかし彼はコマ外で転んだりする。威厳のある人物として描かれながら、同時に格好悪い。
だから人間になる。
作者は属性を書いているのではない。その人が長い時間を生きた結果として身につけた空気を書いている。
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一方、『コジコジ』にも同じものがある。
有名な「コジコジはコジコジだよ」の回では、次郎くんが感銘を受ける。しかし家に帰って母親にその話をすると、「それじゃ困るんだよ!」と叩かれる。
普通なら感動話で終わる。
あるいは親を否定して終わる。
しかしさくらももこはそうしない。
面白いのは、母親が正しいからではない。
あの一言には、次郎くんを育ててきた時間が含まれている。
母親はコジコジを論破しているのではない。「また何か言い出したな」という長年の親子関係の延長線上で反応している。
だから読者は説教としてではなく、親子の空気として受け取る。
さくらももこの作品には、仲が良いか悪いかでは説明できない関係がよく現れる。
人間関係は、好きか嫌いかだけでは整理できない。
腹は立つ。
理解できない。
それでも一緒にいる。
あるいは離れた後も、どこかで関係が続いている。
そうした曖昧な場所に、彼女の関心は向いている。
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さくらももこも、いがらしみきおも、人間を属性で見ていない。
人間関係の中で生まれる空気を見ている。
だからキャラクターが記号にならない。
現実の人間関係もそうだ。
好きか嫌いかではない。
仲が良いか悪いかでもない。
腹は立つ。
理解できない。
でも一緒にいる。
人間関係の多くは、その曖昧な場所に存在している。
さくらももこといがらしみきおが描いているのは、そうした説明しにくい空気だ。
だから読者は思う。
「こういう人を知っている」
ではない。
「こういう空気を知っている」
と。