ある時、友人たちと会話をしていて、旅行の計画の話になった。
「パートナーはいるが、お互いに関係に名前はつけていない」という、結婚していない知人が言った。
「自分は旅行の計画をするのが好きだ。旅行の計画をすると、だいたい6割くらいその通りになったら、上手くいったって思うことにしてるんだよ」
それに対して、結婚している友人が返した。
「いいな。自分は旅行をすると、パートナーが計画通りにならないと不機嫌になる。自分は寄り道したりしたいのに、それは許されない。合わせなければいけないんだ」
すると、最初の知人はこう返した。
「パートナーのやりたいことに合わせることもあるよ。でも、自分はパートナーとは結婚していないから、自由にできる部分については、違いがあるのかもしれないな」
*
これを、なかなか示唆に富んだ会話だ、と横で聞いていて私は思った。
恋人関係や結婚というものは、「名前のある関係」なのだと思う。
関係に形を与え、その関係の中にいる人に、多くの安心を与えてくれるものでもある。
でも、名前のある関係というのは、ある形式の中に、人を押し込めてしまうことがある。
付き合っているんだから。
結婚しているんだから。
家族なんだから。
そこには、「……だから、こうするべきだろう」が付きまとう。
さっきの会話の中の、結婚している友人のように。
*
名前のある関係を成立させるためには、ある役割への期待に応えなければならない部分がある。
結婚でいえば、一緒に暮らす、家事や仕事で役割を分担する、一緒に行動する……。
恋愛でいえば、デートをする、定期的に連絡する、肉体関係になる……。
親子でいえば、親は子どもの面倒をきちんと見なければならない……。
このように、社会の経験的な蓄積によって、手順書のようなプロセスが作られ、形式として発達してきた部分がある。
その形式の中にいることで、人は安心できる部分も確かにある。
けれど、この形式に沿わない経験をしている人も、世の中には案外たくさんいるのである。
*
名前のある関係だけが価値を持っているわけではない、と私は思う。
むしろ、名前のつけられない関係に向き合った時に、人は辛い思いをしながらも、豊かな経験をするのではないか。
名前のつけられない関係は、正体が分からなくて、苦しいかもしれない。
でも、その経験は、人間として唯一無二のものだ。
結婚していない友人が、ふと言った。
「人の目を気にせず、やりたいことをやれるというのが、人間にとって本当の幸せだと思うよ」
私自身も、そういうふうに生きたいと思ったりした。