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幸福になるとは、自分の感覚を信じる能力を身につけることだ

幸福について考えるとき、多くの人は「何を手に入れれば幸せになれるのか」を考える。

良い仕事。
十分なお金。
安定した家庭。
評価される立場。

もちろん、それらが幸福と無関係というわけではない。

けれど、不思議なことに、そうした条件を手に入れても満たされない人はいるし、逆に特別な成功を手にしていなくても穏やかに暮らしている人もいる。

その違いはどこから生まれるのだろう。

私は最近、一つの仮説を考えている。

幸福になるとは、自分の感覚を信じる能力を身につけることなのではないか、と。


人は他人と比較することで、自分の立ち位置を確認する。

同年代と比べてどうか。
平均と比べてどうか。
周囲から見て成功しているか。

比較は便利だ。

自分がどこにいるのかを素早く教えてくれる。

しかし、比較によって分かるのは優劣であって、幸福ではない。

年収が上がったとしても、それで本当に満足できるかどうかは別の話だ。

大きな家を買ったとしても、その暮らしが心地よいかどうかは別の話だ。

ところが私たちはしばしば、その二つを混同してしまう。

他人より優れていることと、自分が幸せであることを同じものだと思ってしまうのだ。


なぜそうなるのか。

おそらく、比較の方が簡単だからだ。

他人との違いは数字で示せる。

順位もつく。

説明もしやすい。

一方で、自分の感覚は曖昧だ。

なぜそれが好きなのか説明できないことも多い。

旅行が好きな理由。
特定の街に惹かれる理由。
一緒にいると落ち着く人の理由。

理屈で説明しようとしても、最後は「なんとなく好きだから」としか言えないことがある。

しかし、幸福の正体はむしろそこにある。

説明できることではなく、感じていることの中にある。

私は旅行動画を見るのが好きだ。

特に、派手な演出もなく、ナレーションもなく、ただ世界を歩いていくような動画に惹かれる。

そこには成功も競争もない。

ただ「この景色を見てみたい」「この場所に行ってみたい」という感覚がある。

そして、その感覚は誰かと比較して生まれるものではない。

自分の中から湧いてくるものだ。

幸福とは、そういう感覚を見失わないことなのかもしれない。


もちろん、自分の感覚を信じるのは簡単ではない。

周囲は常に別の基準を提示してくる。

もっと頑張れ。
もっと稼げ。
もっと評価されろ。

そうした声に囲まれていると、自分が何を心地よいと感じていたのか分からなくなる。

だから多くの人は、自分の感覚ではなく、他人の評価を頼りに生きるようになる。

その方が安心だからだ。

だが、他人の評価は借り物である。

借り物は、自分を支えることはできても、自分を満たすことはできない。

満たされるためには、自分自身が「これでいい」と感じる必要がある。

そして、その感覚は誰かに証明してもらうものではない。

自分で育てるものだ。

幸福とは、何かを達成した先にあるゴールではないのかもしれない。

むしろ、自分の感覚に耳を傾け、その感覚を信じる力を少しずつ身につけていく過程そのものなのではないだろうか。


他人から見て正しい人生ではなく、自分が心地よいと感じる人生を選ぶこと。

幸福とは、そのための能力の名前なのだと思う。