本屋に行っても、SNSを開いても、世の中は答えで溢れている。
成功する方法。
幸福になる方法。
人間関係を改善する方法。
人は答えを求めるし、答えを与える人もいる。
それ自体は悪いことではない。
実際、困っているときには具体的な答えが役に立つ。
でも、なぜ世の中にはこんなにも答えが多いのだろう。
そして、なぜ私たちはそれを求め続けるのだろう。
多くの人は、答えを与える行為を親切だと考える。
もちろんそれは間違っていない。
経験者が初心者に道を示すことには価値がある。
しかし、答えが多く流通する理由には、もう一つの側面がある。
それは「答えには市場価値がある」ということだ。
答えは売りやすいのだ。
「幸福とは何か」よりも、「幸福になる方法」の方が売れる。
「なぜ人は比較するのか」よりも、「人と比較しない方法」の方が売れる。
問いは考える負荷を要求するが、答えは安心を提供する。
だから市場は自然と答えを増やしていく。
さらに答えにはもう一つの特徴がある。
答えを持っている人は強く見える。
私は知っている。
私は分かっている。
これが正解だ。
そう語る人は頼もしい。
一方で、
まだ分からない。
こういう構造がある気がする。
一緒に考えてみたい。
そう語る人は曖昧で弱く見える。
だが、本当にそうだろうか。
私はむしろ逆のことを考えた。
答えは、特定の条件下でのみ成立する。
時代が変われば変わる。
環境が変われば変わる。
人が変われば変わる。
つまり答えには適用範囲がある。
ところが、その前提条件はしばしば省略される。
なぜなら、適用範囲の限界については、省略した方が売りやすいからだ。
その結果、私たちは答えを集めることに夢中になる。
本当に必要なのは、答えそのものではなく、その答えが生まれた構造を理解することなのかもしれない。
なぜその人はそう考えたのか。
どんな条件で有効だったのか。
どんな前提の上に成り立っているのか。
そこが見えると、自分で考えられるようになる。
私は答えが不要だと言いたいわけではないけれど、答えは万能ではないということも言っておきたい。
だからこそ、答えそのものよりも、答えを生み出した問いの方に興味がある。
世の中には答えが溢れている。
しかし、本当に希少なのは問いの方なのかもしれない。