自分が年齢をそこそこ重ねてきたせいなのかもしれないが、
「オバ見えしない服」
そんな見出しの記事を見るたびに、私は少し不思議な気持ちになる。
なぜ人はそこまで「オバ見え」を恐れるのだろう。
もちろん、若く見られたいと思うこと自体は自然な感情だろう。
だが、私にはもう一つ気になることがある。
そもそもなぜ私たちはその勝負に参加しているのだろうか。
若さは、社会の中で価値として扱われる。
だから若く見えることは褒め言葉になり、老けて見えることは避けるべきこととして語られる。
その価値観自体を否定するつもりはない。
そんなとき、多くの人は「どうすればこの物差しの中で勝てるか」を考える。
もっと若く見える服を探し、失敗しない着こなしを学び、評価されるための方法を身につけようとする。
しかし本当に考えるべきことは別かもしれない。
「私はこのゲームをやりたいのだろうか」
という問いである。
例えば、世の中には最初から別のゲームをしている人たちがいる。
彼らは服を若さの証明として使わない。
流行への適応能力を示すためにも使わない。
服を通じて、自分の趣味や思想や身体との関係を表現している。
そういう人に向かって「若く見えますね」と言っても、あまり褒め言葉として機能しないだろう。
競技が違うからだ。
この構造はファッションに限らない。
出世も同じである。
課長になりたい。
部長になりたい。
役員になりたい。
それ自体は悪いことではない。
大きな仕事を動かしたい人もいるだろう。
権限を持ちたい人もいるだろう。
収入を増やしたい人もいるだろう。
問題は、その理由を自分で理解しているかどうかである。
人はしばしば、出世したいのではなく、出世しなければならないと思い込む。
同期と比べる。
年齢と比べる。
世間の平均と比べる。
そしていつの間にか、自分が何を望んでいるのかよりも、順位を上げることそのものが目的になっていく。
だが、その競争に違和感を覚えるなら、一度立ち止まってもいいのではないか。
人生には様々なゲームが存在する。
若さのゲーム。
出世のゲーム。
SNSのゲーム。
評価のゲーム。
問題はゲームが存在することではない。
自分が参加していることに気づかないまま走り続けることである。
ゲームが好きなら続ければいい。
勝ちたいなら勝ちに行けばいい。
ただし、それが本当に自分のゲームならば、である。
違和感があるなら、無理に勝とうとしなくてもいい。
ルールを変えてもいい。
別の競技を始めてもいい。
あるいは、参加しないという選択だってある。
私たちは「どうすれば勝てるか」を考えることには慣れている。
しかし、「なぜ私はこのゲームをしているのか」を考える機会は意外と少ない。
だから時々、自分に問いかけてみる。
勝てるかどうかではなく。
続けるべきかどうかでもなく。
もっと手前の問いとして。
それは、本当にあなたのゲームなのか。