世の中には、生産性を上げるためのメソッドが山ほどある。
「10分あれば読書ができる」
「朝の30分を活用しよう」
「タスクを細かく分解しよう」
「ポモドーロで集中しよう」
「隙間時間を有効活用しよう」
どれも間違ってはいない。
ただ、これらを見ていると、致命的に抜け落ちているものがある。
それが、「意思決定コスト」だ。
忘れられがちだが、多くの生産性メソッドは、「何をやるか」がすでに決まっている世界を前提にしている。
課題を解く。
メールを返す。
本を読む。
資料を作る。
運動する。
やることさえ決まっていれば、あとは実行方法を最適化すればいい。
10分をどう使うか。
集中をどう維持するか。
作業をどう分割するか。
そのため、この領域はたいへんメソッド化しやすい。
しかし現実の仕事や生活では、その前にかなり大きな工程があることも多かったりする。
「そもそも」何をやるのか。
「何を」「今」やるのか。
「何を」やらないのか。
「どこまで」やれば十分なのか。
問題は本当にそこなのか。
誰が決めるべきなのか。
優先順位は正しいのか。
こうした判断にはかなり時間がかかる。しかも、単純な作業時間とは違って外からは見えにくい。
30分考えた結果、「今日はやらない」と決めた場合、見た目には何も生産していない。
しかし実際には、無駄な作業を数時間分消しているかもしれない。
逆に、意思決定を省略して猛烈な速度で作業を進めれば、間違った方向へ猛烈な速度で進むこともできる。
それでも世の中の生産性論は、実行フェーズについてを扱ってばかりだ。
その理由は単純で、「その方が売りやすい」からだ。
例えば、解決方法で
「状況をよく観察し、自分で問題を定義し、選択肢を比較し、不確実性を引き受けながら意思決定してください」
なんて言われたら、こんな本はあまり気持ちよくない。答えが書いていないからだ。
だが一方で、
「朝5時に起きましょう」
「25分集中しましょう」
「1日10分読書しましょう」
こちらは非常に気持ちいいだろう。
これらは、今日からできる。
チェックリストにもできる。
達成感もある。
そして何より、万人に売れる。
それとは逆に、意思決定は個別的・具体的だ。
その人の能力、環境、責任、目的、人間関係によって正解が変わる。
だから大規模に商品化しにくい。
実行方法は比較的共通化できる。
だから世の中に流通する「生産性」の知識は、必然的に実行フェーズへ偏っていく。
その結果、少し奇妙なことが起きる。
「10分空いているなら、その時間で何かできるはずだ」
という考え方だ。
これは、一部は正しく、一部は誤りである。
というのも、確かに、やることが決まっている単純作業ならできる。
しかし、文章を書く、設計する、企画する、勉強する、深く読む、といった作業ではそうはいかない。
まず前回の文脈を復元する。
今どこにいるか思い出す。
何を考えるべきか確認する。
集中できる状態まで頭を移行させる。
10分の空き時間があっても、10分すべてが作業時間になるわけではない。
むしろ、ようやく頭が立ち上がったところで終了することすらある。
ここでも、メソッドから消されているのは、切り替えと意思決定のコストだ。
だから、私は、「隙間時間を活用できる人ほど生産性が高い」とはあまり思わない。
それは、単に、その人が扱っている仕事が細切れにしても壊れにくい可能性もあるからだ。
逆に、高い認知負荷を必要とする仕事を無理に細切れ化すると、一日中コンテキストスイッチを繰り返すことになる。
時間は埋まっているけれど、しかし頭は疲れている。これは果たして生産的なのだろうか。
生産性という言葉は、作業速度の話として語られすぎている。
本当は、何をやるかを決める力。
やらないことを決める力。
考えるための余白を確保する力。
文脈を維持する力。
こうしたものも含めて考えた方がいい。
結論。
世の中の生産性論は、意思決定コストを消去した世界の攻略本である。
その攻略本が役に立たないわけではない。
ただし、それは「ゲームのルールがすでに決まっている場合に限り」、なのだ。
そして、現実で難しいのは、しばしば攻略そのものではない。
そもそも、どのゲームをやるのか決めることなのだ。