← 1000notes

AIで書いた文章は、「塩素で消毒した水」である

昨今、生成AIは急激に進化していて、文章を書かせると、かなりきれいなものが出てくる。話の筋は通っているし、誤字も少ない。頼めば読みやすく整理してくれるし、こちらが言いたかったことまで察して、それらしい言葉にしてくれる。

これは便利である。私も毎日のように使っている。

ただ、出来上がった文章を読んでいると、ときどき妙な物足りなさを感じる。まずくはない。むしろよくできている。なのに、もう一度読みたいとはあまり思わない。なんだろう、と考えていて、ふと思った。

AIで書いた文章は、塩素で消毒した水に似ている、と。

水道水は安全だ。透明で、変なものが混じっている心配も少なく、蛇口をひねればいつでも同じような水が出てくる。それは文明としてすばらしい。

でも一方で、ちょっと想像してみて欲しいのだけど、旅先で飲んだ妙に硬い水や、山で飲んだ冷たい湧き水のことを、何年経っても覚えていたりすると思う。

文章にも似たところがある。きれいに整っていることと、記憶に残ることは同じではない。少し妙な言い回し、普通なら選ばない単語、唐突な一文。文章を整える立場から見れば削ってしまいたくなるものが、逆に「この人が書いた」と感じさせることがある。

例えば、私は岸惠子や高峰秀子、桃井かおりのエッセイが好きなのだが、彼女たちの文章を読んでいると、それを強く感じる。彼女たちは本業の作家ではない。それなのに文章がおもしろい。文章術をどれだけ勉強したのだろう、というより、そもそも見ているものがおもしろいのだと思う。

同じ出来事を目の前に置いても、拾うものが違う。そして拾ったものを、少し変な角度のまま文章に置いてしまう。その変な濁った感じを、濾過しすぎない。濁っているけれど、だからこそ読んでいるこちらは、ときどき「ああ、この書き方はいいな」とワクワクする。

文章の魅力とは、正確さや読みやすさだけではなく、その人が世界をどう見ているかの痕跡なのかもしれない。

私は、AIより上手な文章を書こうとはあまり思わない。というか、最も確率論的に良さそうなものを、常に高速で出してくるような奴に、人間が勝負を挑んでも、勝ち目はないんですよ。だから私は、文章を整理したり、構成を考えたり、調べものをしたりするところでは、これからも進んでAIを使うだろう。

でも、自分が書いていて「ああ、この書き方はワクワクするな」と思った瞬間は、大切に残しておきたい。テンポや言葉の使い方に妙な癖があってもいい。少しくらい内容が濁っていてもいい。それを何年もかけて拾い集めていけば、いつか自分の文体と呼べるものになるのだと思う。

安全で透明な水を作る技術がどれだけ進歩しても、私はたぶん、ときどき妙な味のする水を飲みたいんだと思うな。文章くらいは、それでいいじゃないの。