なぜ埼玉に「変わった動物」が集まるのか——埼玉県こども動物自然公園における教育・飼育専門性・希少種保全の継承史
Why Do the Strange Animals Gather in Saitama? — Education, Keeper Expertise, and the Inheritance of Conservation at Saitama Children's Zoo
著:霧星礼知(min.k)|mncc.info / Author: Reichi Kirihoshi (mncc.info)
1. 導入——この園の飼育レパートリーはなぜ奇妙に見えるのか
動物のラインナップが、まず不可解である
コアラ。クオッカ。プーズー。マヌルネコ。スナネコ。グンディ。ウスイロホソオクモネズミ。ハダカデバネズミ。アマミトゲネズミ。フンボルトペンギン。そして乳牛とヤギとポニー。
埼玉県東松山市の比企丘陵にある埼玉県こども動物自然公園の飼育種を並べると、多くの人は一度は引っかかる。ライオンもゾウもトラもいない。かわりに、名前を聞いたことすらない齧歯類が何種類もいる。日本でここでしか見られない動物が複数いる。そのうえで、乳しぼり体験ができる。
「珍しい動物を集めた珍獣園」と説明すれば、一応の説明にはなる。だが、それでは説明できないことが多すぎる。
現在の園が担っている機能
園の公式資料によれば、同園は一九八〇年の開園当初、家畜と少数の鳥類が飼育展示されているのみだった施設から出発し、現在では約一四〇種の動物を飼育する規模へと成長している[1]。そして現在の活動として掲げられているのは、ツル・オウム・サイチョウなど絶滅のおそれのある希少鳥類の保護繁殖、コアラ・レッサーパンダ・マヌルネコなどの繁殖成功、日本産希少動物であるアマミトゲネズミの生息域外保全、大学等との共同研究、そして家畜を用いた食育・情操教育である。二〇一九年にはWAZA(世界動物園水族館協会)にも加盟している[1:1]。
つまりこの園は、展示施設であり、教育施設であり、繁殖施設であり、研究施設であり、域外保全施設でもある。これらを同時に担っているのである。
本稿の問い
本稿の問いはひとつである。
なぜ、一九八〇年に家畜と少数の鳥類から始まった県立の「こども動物自然公園」が、四十五年後に、他園ではあまり見られない種を数多く抱え、希少種の繁殖・研究・国際協力を行う園になったのか。
先に本稿の仮説を述べておく。
現在の独特な飼育種構成は、珍しい動物を収集するという方針から直接生まれたものではない。開園時から存在した動物園教育の思想を土台として、各世代の飼育担当者が担当種を専門的に掘り下げ、その知識・飼育技術・国際的な人間関係を組織に残していった。その結果として、希少種を継続的に受け入れ、繁殖し、研究できる園が形成された——というのが本稿の見立てである。
ただし後述するとおり、この見立てのうち確実に資料で裏づけられる部分と、複数世代の行動から推測しているにすぎない部分がある。両者は本稿の最後で明確に区別する。
2. 成立史——「普通の動物園」にならなかった園
一九八〇年五月五日、家畜と鳥から始まる
同園の開園は一九八〇年五月五日である。当時の飼育構成が家畜と少数の鳥類中心だったことは、園自身が現在も公式に記している[1:2]。二〇一三年に環境省の検討会で講演した当時の園長・日橋一昭も、同じ開園日を挙げたうえで園の成り立ちを説明している[2]。
計画はさらに二年さかのぼる。埼玉県が現在も公表している公園の沿革によれば、こども動物自然公園は昭和五十三年(一九七八年)二月、次代を担うこどもたちが動物および比企丘陵の自然と調和できるよう計画され、「こどもが動物と親しむ」「こどもが自然の中で情操と科学心を養う」「こどもがリラックスして遊べる」という三つの基本理念のもとに開設された[3][4]。
この三つのうち二つが「親しむ」「情操と科学心を養う」である。設置目的の段階で、この公園は動物の展示施設ではなく、こどもと動物の関係をつくる施設として定義されていた。ここで重要なのは、この園が「大型猛獣を中心とする総合動物園」として出発しなかった、という一点である。現在のコレクションを理解するうえで、この出発点は決定的に効いてくる。
計画変更をめぐる証言
なぜそうなったのか。日橋は環境省の検討会で、委員から「家畜重視で動物園をスタートさせたのは珍しいと思うが、なぜそのように始まったのか」と問われ、開園当時に神野寺のトラ騒動とラッキー騒動があり、この問題によって、一般的な動物園を作ろうとしていた計画が変わってしまった、という趣旨を答えている[2:1]。
ここでいう「神野寺のトラ騒動」と「ラッキー騒動」について、少し説明しておきたい。
一九七九年八月、千葉県君津市の神野寺に併設されていた動物園から、一歳のトラ三頭が脱走した。一頭は当日中に戻ったものの、残る二頭は約二十六日間にわたって周辺地域を逃走し、近隣住民への外出制限や、警察・消防・猟友会など延べ約八千人を動員する捜索に発展した。事件は、猛獣を民間施設で飼育することの安全性を社会問題として強く印象づけた。
同じ時期の埼玉県では、民家で個人飼育されていた雄ライオン「ラッキー」をめぐる騒動が起きていた。埼玉県ではすでに一九七八年三月、別の個人飼育ライオン二頭が飼い主を死亡させる事故があり、県が危険動物の飼育管理を求める指導要綱を設けていた。その後ラッキーも知人二人を襲って重傷を負わせ、飼育継続の是非をめぐって署名運動や行政・警察による説得が続いた末、一九八〇年十二月に東武動物公園へ移された。
したがって、日橋が「神野寺のトラ騒動とラッキー騒動によって、一般的な動物園を作ろうとしていた計画が変わった」と回想する背景には、単なる二つの珍事件ではなく、大型猛獣の飼育そのものに対する社会的な安全意識が急速に変化していた一九七〇年代末の状況があったと考えるべきだ。
これは当事者の証言としてきわめて重要である。ただし、ここから「大型猛獣がいなくなったから、かわりに珍しい小動物へ向かった」という直接的な因果を引き出すのは早い。当事者が語っているのは、あくまで開園時点で計画が変更されたという事実であって、その後四十年のコレクション形成までを説明したものではない。
本稿としては、より抑制的にこう述べるにとどめたい。大型猛獣中心ではない施設構造が、結果として、後年の小型種・希少種中心のコレクション形成と相性が良かった可能性がある。
初代園長・遠藤悟朗と動物園教育
同園の初代園長は遠藤悟朗である。彼をどう位置づけるかで、この園の歴史の読み方はまったく変わる。
遠藤は一九二五年生まれ。獣医師として一九四九年に上野動物園へ採用され、子供動物園を中心に長く動物園教育の実践に携わった人物である。のちに日本の動物園職員による教育研究組織の形成にも関わり、一九七五年に設立された動物園教育研究会では初代会長を務め、一九七八年には国際動物園教育者協会の会議にも参加している。したがって一九八〇年に埼玉県こども動物自然公園の初代園長となった時点で、遠藤はすでに約三十年に及ぶ動物園勤務経験と、動物園教育についての明確な問題意識を持つ人物だった。
遠藤は、上野動物園で一九四八年に子供動物園事業を開始しており、翌年からは夏休み期間を利用したサマースクールを実施していた。遠藤はこの子供動物園を担当した職員であり、獣医師として上野動物園に採用されたのは一九四九年である[5]。
さらに、埼玉開園の九年前にあたる一九七一年、遠藤は『月刊社会教育』誌上で「子ども動物園の創造」を発表している[6]。この論考は、動物園の子ども向け事業を娯楽ではなく社会教育の実践として論じたものであり、遠藤自身が上野動物園の子供動物園の沿革を創設期・開発期・整備拡充期の三期に整理している[5:1]。そこで彼が示した子ども動物園の目的は、身近に動物と親しむことを通じて、動物をいたわる気持ちと、自然や自然科学への関心の芽を育てることにあった[5:2]。開園九年前の段階で、この人物にはすでに明確な思想がある。
そして埼玉開園のわずか二年前の一九七八年、遠藤は『子ども動物園』(フレーベル館)を刊行している[7]。
つまり、「こども動物自然公園」という名称は、県が付けた無難な看板ではない。それは、戦後日本の動物園教育史の系譜の上に置かれた名前である。
一九七五年、研究会が埼玉に接続する
もうひとつ、組織史として見逃せない事実がある。
日本動物園水族館教育研究会は一九七五年に設立された任意団体で、その初代会長が、上野動物園の遠藤悟朗であったことだ[8]。設立当初の事務局は日本モンキーセンターに置かれたが、その後、事務局は埼玉県こども動物自然公園へ引き継がれている[8:1]。研究会の設立経緯を整理した学術研究も、この会が「上野動物園内の子ども動物園で数多くの教育実践を試み、後、埼玉県こども動物自然公園園長を務めた遠藤悟朗を中心に組織された」ことを記し、今日の日本の動物園が大なり小なりこの研究会活動の影響を受けているとする広瀬鎮の評価を引いている[9]。
日本の動物園教育の全国的なネットワークの事務局が、開園間もない県立の子ども向け動物園に置かれた。この事実は、埼玉が単なる地方の家畜ふれあい施設ではなく、動物園教育の実践拠点として自己認識していたことを示している。
3. 希少種繁殖への展開——展示から保全へ
コウノトリという初期の転換点
教育施設として出発した園が、いつ、どのように保全機関へと拡張したのか。その最初の分岐点はコウノトリである。
日橋一昭本人が、後年こう回想している。一九八〇年の開園からしばらくして、国際ツル財団のアーチボルド氏が園内を視察に訪れた。彼は「埼玉の空にコウノトリを戻そう。」と、当時の状況ではまさに夢のような構想を、当時の園長と日橋にたきつけた——と[10]。
そして中国産のコウノトリを入手し、施設も作ってはみたものの、当初は失敗続きの日々だった、と日橋は率直に書いている[10:1]。
ここで注目すべきは順序である。開園から数年のうちに、この園はすでに「珍しい鳥を展示する」のではなく、飼育し、繁殖させ、将来的に野に戻すという保全の目標を持っていた。教育施設としての性格と、保全機関としての性格は、この時点で接続している。
二十七年かかった繁殖と、発案者の不在
この計画がどうなったか、記録を見てみよう。
同園が中国からニホンコウノトリを受け入れて飼育を開始したのは一九八八年四月であり、これは初代園長・遠藤悟朗の先導によるものだった。しかしコウノトリの繁殖はペア形成から産卵、ヒナの生育まで非常に難しく、二十七年間、繁殖に結びつかなかった。二〇一四年にはヒナ二羽が孵化したものの、十二日で衰弱死している。巣台や巣材の改良を重ねた翌二〇一五年、四月に産んだ四卵のうち三羽が孵化し、無事に育った[11]。
孵化日の一つは五月五日。同園の開園記念日である。
この二十七年のあいだに、遠藤悟朗は世を去っている。発案者本人はすでに亡くなっていた。それでもこのプロジェクトは終わらなかった。
人物史として見たとき、これがこの園でいちばん重要な出来事だと私は考える。 個人が持ち込んだ構想が、その個人の不在を越えて、組織の技術目標として残った。以降この園で繰り返し起きることの、最初の実例である。
「同じ動物を飼うなら希少種を」——収集ではなく選択
では、その後この園はどういう論理で動物を選んできたのか。ここで最重要の一次資料に触れる。
二〇一三年十一月、環境省の「動植物園等の公的機能推進方策のあり方検討会」で、日橋は同園の運営方針をきわめて具体的に説明している[2:2]。当時の飼育数は哺乳類七十二種、鳥類百三種、爬虫類・両生類四十一種。そしてキリン以外は小動物であり、温度管理の必要がない小型哺乳類が中心だ、と述べている。
続けて彼はこう説明する。購入した動物はインコ、ツルなどであり、その他は貰ったもの、交換したもの、ブリーディングローンで育てているものである、と。
そのうえで、種の保全についてこう語っている。*同じ動物を飼うのなら希少種を飼うことで、種の保存に貢献したい。
さらに日橋は、日本動物園水族館協会の生物多様性委員会委員長として、一つの動物園では保全活動はできないのでみんなで協力していかなければならない、という考えからコレクションプランニングの策定が始まったこと、協力しなければ消えては困るものがいつのまにかいなくなってしまうこと、ゆえにルール作りが必要であることを述べている[2:3]。
これは理念だけの話ではない。埼玉県の公文書によれば、同園はブリーディングローンについて借受二十七件、貸出四十一件の手続きと調整を行っており、貸出・借受のいずれについても年に一度の繁殖状況報告のやりとりと、繁殖した子の所有権の調整を続けている[3:1]。また、長年の飼育繁殖技術が評価されてマナヅルとヒワコンゴウインコの種別計画管理者を担当し、オグロヅル、マヌルネコなどの個体登録も担当している。マナヅルについては世界動物園水族館協会から国際血統登録者として登録されている[3:2]。
つまりこの園は、動物を「所有」しているというより、国内外の血統管理ネットワークの結節点として動物を預かり合っている。あの奇妙なコレクションの多くは、買われたものではなく、貸し借りされているものである。
「箱舟の定員」という選択基準
同じ議事録には、この園の動物選択の論理をほとんど直接に説明している箇所がある。
飼育動物は展示目的なのか保全目的なのかを問われた日橋は、生物多様性委員会でアメリカの委員が語ったという見通し——今後百年は人口が増え環境は悪化するので、それまでは動物園という方舟の中で残す、政情不安定な国ではあっという間にいなくなってしまう動物があるが、どこかで持っていれば取り返しがつく——を紹介したうえで、自分たちは今その箱舟に載る定員を決めようとしている、と述べる[2:4]。
そしてその優先順位を、こう説明した。一番目は日本で飼育できる希少種、二番目は動物園の目玉になるもの、これも実は希少種であることが多い。
この一節は、本稿の問いに対するほとんど直接の回答になっている。
つまり、選択基準は「珍しさ」ではない。基準は二つ、「日本のこの施設で飼えるか」と「希少種か」である。そして日橋自身が指摘するとおり、動物園の集客上の目玉になる動物は、しばしばそのまま希少種でもある。この二つの基準を掛け合わせた結果として選ばれる動物のリストは、外から見ると「なぜこれを集めた?」という奇妙なラインナップになる。
奇妙に見えるのは、結果である。基準そのものは、恐ろしく実務的だ。
4. コアラが変えたもの——専門飼育と国際ネットワーク
一九八六年、姉妹州提携からコアラが来る
日本に初めてコアラが来たのは一九八四年で、多摩動物公園、名古屋市東山動物園、鹿児島市平川動物公園に二頭ずつが来園した。埼玉県こども動物自然公園には、一九八六年に雄二頭、一九八七年に雌四頭が来ている。埼玉県とオーストラリアのクイーンズランド州が姉妹提携をしたことが縁だった[12]。その後カンガルーやオーストラリア由来のカモの仲間なども到着し、「東園」がオーストラリアの動物エリアになっていった[12:1]。
コアラは人気動物であると同時に、日本の動物園にとっては高度な飼育技術と、海外との継続的な情報交換を要求する種である。ここから園の性格が一段変わる。
田中理恵子——外から来た若者が、内側で専門家になる
この時期に入職し、のちに園長となったのが田中理恵子である。在日オーストラリア大使館によるインタビューは、彼女自身の言葉で経歴を追える貴重な資料になっている[12:2]。
田中が同園を初めて訪れたのは高校二年生のとき、一九八〇年のオープン当日だった。もともとこのエリアが地元で、「夢のような場所ができた」と思ったという。高校三年のときには、募集もないのにアルバイトをさせてほしいと直訴して飼育の手伝いを始めている。
進路を決める際には当時の東武動物公園の園長に電話をかけて相談し、「大学の畜産学科へ行きなさい」という助言を受けて、東京農業大学農学部畜産学科へ進んだ。大学在学中も同園でアルバイトを続け、欠員が出れば大学を休んで二週間連続で勤務することもあった。そこで顔を覚えられ、卒業時に埼玉県公園緑地協会の募集を教えてもらい、一名の枠に入った。それが一九八六年——同園に初めて来たコアラと同期入園である。しかし、彼女がコアラ担当になったのは入職時ではなく、就職後六年経ってからオーストラリアの動物担当になったと語っている。
「コアラ担当はユーカリ屋さんだよ」
コアラ担当になったとき、当時の担当者から田中に告げられた言葉が印象的である。「コアラ担当はユーカリ屋さんだよ」というものだ。
これは冗談ではない。コアラ担当はまず二十種類以上のユーカリを覚えなければならず、それはコアラの個体を覚えるよりも難易度が高い。個体ごとに好みがあり、前日に気に入っていた種類を出しても翌日は食べないこともある。加えて、朝出勤したら夜のうちに録画したビデオを一通り確認し、どの個体が何時ごろどのくらい動いたか、どこで水を飲んだかをすべて記録する。当時のコアラ担当は、ビデオ確認とユーカリ確認で一日が終わったという。
私が惹かれるのは、田中がこの仕事を退屈だと言っていないことである。実際に担当してみるとやはり面白く、繁殖にも成功していたので、生まれたところから成長していく様子まで知らないことばかりで、どんどんコアラを知りたくなった、と述べている[12:3]。そして次第に、オーストラリアで野生動物の生活を見てみたいと思うようになった。
私的な旅行が、組織の資産になる
ここが本稿の中心にかかわる。
田中は一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけて何度もオーストラリアを訪れているが、それは研修ではなく、すべてプライベートな旅行だったと明言している[12:4]。カカドゥ国立公園でキャンプをし、野生の鳥やコアラやクオッカを見に行った。メルボルンのヒールズビルサンクチュアリの、周囲の自然と一体化したような展示から学び、ナンバット(フクロアリクイ)を見るためにパース動物園を訪ねた。
そして彼女はこう続ける。動物園に行くと現地の飼育係と仲よくなって、情報交換につながることが多い。同業者なのでシンパシーを感じる。そのためにも英語の勉強はマストになる[12:5]。
一方で、制度としての研修も存在する。コアラやクオッカのようにオーストラリアから正式に贈られた動物については、担当する飼育係が一定期間の研修を受ける必要があり、獣医も飼育係も現地の動物園に一週間滞在する。中には一か月以上現地で研修を受けた飼育係もいた。研修はすべて英語で、餌の量も部屋の環境も細かく指導されたそうだ。
クオッカが来た理由
その帰結が、二〇二〇年のクオッカである。
田中は、当園は小型有袋類の飼育経験が豊富で、その技術はオーストラリアから評価されている、と述べたうえで、その成果もあって、開園四十周年にあたる二〇二〇年三月に、オーストラリアのフェザーデール野生動物園から四頭のクオッカ受け入れに許可をもらえた、と説明している[12:6]。生息地であるオーストラリア以外で飼育・展示されるのは世界初とされた[13]。
受け入れの手続きも軽くはない。オーストラリアの固有種を現地から導入する際には細かい基準をクリアする必要があり、同園の場合、十分な飼育スペースの図面や飼育管理計画書はもちろん、所在地である東松山市の年間気温や湿度まで提出したという[12:7]。動物の受け入れは簡単ではなく、一種類を受け入れるのに五年がかりで計画することも珍しくない、とも述べている。
順序を確認しておきたい。
珍しいから欲しかった → 手に入った、ではない。
長期間の飼育実績 → 海外との人的関係 → 飼育計画への評価 → 希少種の受け入れ、である。
そしてクオッカは受け入れ後、毎年繁殖に成功し、来園した四頭の倍にあたる九頭の親子が暮らしている。実績はさらに積み上がる。
著者(霧星礼知)が仮に「専門性の自己増殖」と呼んでいる現象がある。ある動物を深く飼うと飼育技術が蓄積し、技術が蓄積すると国内外の専門家との関係が生まれ、関係が生まれると飼育能力への信用が生まれ、信用があると新しい希少種を託され、託されるとさらに専門性が蓄積する——という循環である。埼玉のコレクションは、この循環が四十五年回った跡だと考えると、かなりの部分が説明できる。
5. 「担当種を掘る」——専門性が次の動物を呼ぶ
ペンギンヒルズ——展示を作ってから動物を考えたのではない
同じ循環が、まったく別の系統でも起きている。フンボルトペンギンである。
二〇一一年四月にオープンしたペンギンヒルズについて、市民ZOOネットワークのエンリッチメント大賞2011は施設賞を与え、審査委員コメントで次のように評価している。ペンギンの施設は以前は南極や氷の上をイメージさせる白っぽいコンクリートで囲まれたものばかりだったが、ペンギンヒルズがモデルとしたのは、フンボルトペンギンの南限の生息域である南米チリの、緑豊かなチロエ島である[14]。遊泳できる大きさと深さを持ち造波装置のあるプール、地形を利用した高さ四メートル以上の緑の丘があり、ペンギンは自由にプールと丘の斜面を行き来し、穴を掘り、営巣することができる。敷地の一部に来園者が入れるようにしたことで広い飼育スペースを確保し、ペンギン自身が人との距離を自由に取れるよう工夫されている。
この施設の設計にあたって、園は南米担当の飼育員をチロエ島のフンボルトペンギン保護区にまで派遣している[13:1]。その一行に、のちにペンギンヒルズの飼育係長となる小山良雄がいた[15]。
順序が逆になっていることに注目したい。展示を作ってから動物のことを考えたのではない。動物の生息地と行動を調べに行き、その理解から展示を作った。
なお、余談にはなるが、この賞の審査委員コメントには、公平を期すために引いておくべき一文がある。委員は、それまで比較的狭いスペースで暮らしていたペンギンたちがまだ広い土の陸地に慣れておらず、現在のところこれらの工夫を利用していないことを指摘し、今後ペンギンが施設に慣れ、事故や怪我や大きなストレスを受けずに生息地で見られるような陸上での行動が発現し、繁殖に結びつくことを期待する、と書いている[14:1]。
チリ行きが、プーズーを連れてきた
そしてここから、この園らしい展開が起きる。
日橋は環境省の検討会で、委員から「チリ政府からペンギンを持ってきたということだが、チリ政府から域外保全施設としての認定を取ったのか」と問われ、チリに行って政府から認定をもらった、と答えている[2:5]。
ペンギンの視察でチリに行ったことを機に交流が生まれたチリの国立サンチアゴ・メトロポリタン公園から、二〇一六年夏、希少動物の保存と友好を深めるために、世界最小のシカである準絶滅危惧種プーズーが寄贈された。日本で初めての飼育・展示である[13:2]。
ここで見落としてはならないのは、プーズーがワシントン条約附属書Iに含まれ、原則として輸入ができない種であることだ。埼玉県の公文書によれば、平成二十八年度の輸入は学術目的研究としての許可が認められたものであり、同園は麻布大学等の研究機関と共同でプーズーの行動学や繁殖生理を研究している[3:3]。
つまりプーズーは、研究する能力があることを前提にしてはじめて国内に入れられた動物である。
改めて図式化すると、こうなる。
担当種を深く研究する → 生息地へ行く → 現地機関とつながる → 信用が生まれる → 別の希少種を託される。
コアラ→クオッカと、ペンギン→プーズーは、まったく同じ形をしている。動物も、担当者も、大陸も違う。にもかかわらず経路が同じであるということは、これが個人の資質ではなく、この組織の標準的な動き方であることを示唆している。
飼料ではなく葉を採ってくる
プーズーの飼育を担当することになったのは、ペンギンヒルズの飼育係長である小山良雄だった。チリ視察に赴いた一行の一人であり、本人は担当になった理由を「ペンギンと生息地が近かったからかな」と笑っている[15:1]。
その小山は、プーズーの給餌についてこう説明する。ここでもチリの環境をできる限り再現しており、生態は普通のシカとそれほど変わらないが、南半球から来たので食べるものが少し違う。園の周囲は山でいろいろな植物があるので、葉を山で採ってきて毎日新しくして食べさせている——プーズーはトウネズミモチが大好きで、ヒサカキもたくさん食べる、と[15:2]。
別の取材では、その理由がより具体的に語られている。飼料は少ない量で栄養が足りるように作られているためすぐに食べ終わってしまい、暇な時間が増えてしまう。生の葉なら栄養素が少ないぶんそれなりの量を食べなければならず、噛んで反芻するという自然な動作も加わるので健康に良い、と[13:3]。
これは動物福祉の教科書的な説明でありながら、同時に「毎日、山まで葉を採りに行く」という手間を引き受ける判断でもある。担当種を掘るというのは、こういう地味さのことである。
そしてこの小山について、記事の写真キャプションはこう記している。飼育係はいくらでもクリエイティブになれる[15:3]。
一言だけを取り出して園全体の文化を断定するつもりはない。しかしこの言葉を、遠藤・日橋・田中・小山という複数世代の実際の行動と重ねると、少なくとも次のことは言える。この組織では、飼育担当者が担当種を深く理解し、その理解を展示・繁殖・研究へ発展させる余地がかなり大きかった。
なお小山は、片野ゆか『しあわせ動物園 スゴイ飼育員さんの本当の話』(ポプラ社)に登場する飼育員として紹介されており、二〇二三年には越谷市立図書館の開館四十周年記念ワークショップに講師として招かれている[16]。
6. 「謎のオーディション」の正体——現在のコレクション政策
ecoハウチュー——珍しいから選んだのではない
現在の同園でもっとも「なぜ?」と言われそうな施設が、二〇一九年九月に開館したecoハウチューである。
昼行性エリアにはスナネコ、グンディ、デグー、ビスカチャ。夜行性エリアにはウスイロホソオクモネズミ、ハダカデバネズミ、チビフクロモモンガ、ホンシュウモモンガ、レッサースローロリスなどがいる。グンディとウスイロホソオクモネズミはいずれも二〇一九年に日本初公開された種である[17]。
しかし、施設名の由来を読むと、狙いはむしろ明快である。園の説明によれば、「eco(エコノミー・節約)」な「家(ハウス)」に暮らすネズミ(チュー)の仲間たちの生態「eco(エコロジー・生態学)」を紹介する施設という意味の造語であり、動物たちの特徴的な「eco(節約)」な暮らしぶりも表現している。ネズミの仲間をはじめとする小さな動物たちを集め、その多彩なくらしぶりをじっくり観察してもらう施設だという[17:1]。
つまり、珍しいから選んだのではない。「小型動物の多様な生活様式」というテーマに合う動物を選んだ結果、珍しい動物が集まったのである。
日本初飼育という事実は、目的ではなく副産物として発生している。
アマミトゲネズミ——展示は最後に来る
より徹底しているのがアマミトゲネズミである。
園の発表によれば、環境省と日本動物園水族館協会は平成二十六年五月に「生物多様性保全の推進に関する基本協定書」を締結し、国内の希少野生動物の生息域外保全を進めることとした。南西諸島の固有種であるトゲネズミ類はその対象動物として選定され、同園を含む日動水加盟七園館が平成二十九年からアマミトゲネズミの飼育繁殖に取り組んできた。そして飼育技術の開発に一定の目途が立ったため、二〇二四年四月五日から一般公開が可能になった、というのである[18]。
そしてなぜ埼玉が選ばれたのかについては、埼玉県の公文書がほとんど身も蓋もない書き方をしている。げっ歯類の飼育繁殖実績の多い当園は、野生で捕獲されたアマミトゲネズミを飼育する三園館の一つとして選出されている[3:4]。同文書によれば、二〇二三年三月時点で十七頭を飼育し、繁殖への取り組みだけでなく、二十四時間ビデオ撮影とその解析による生態学的な研究も行っている。
ecoハウチューに並ぶ無名のネズミたちは、この選出理由の前提条件そのものである。小さくて地味な齧歯類を長年飼い続けてきたから、国内最重要級の希少種を任された。 本稿が言う「専門性の自己増殖」は、ここでは比喩ではなく行政文書の一文になっている。
ここでの順序は、通常の動物園の順序とはっきり逆転している。
普通の順序:展示のために動物を導入する → 飼育方法を確立する
同園の順序:保全・研究のために動物を預かる → 飼育技術を確立する → その結果として展示できるようになる
展示は目的ではなく、飼育技術が確立したことの証明として最後に来ている。
研究として制度化された「掘る」行為
そして現在、この「担当種を掘る」という行為は、個人の情熱としてではなく、研究活動として制度の形をとっている。
園が公開している共同研究の一覧を見ると、二〇二一年度以降だけでも、マヌルネコの自動給餌器を用いた採食エンリッチメントの効果、嗅覚エンリッチメントがマヌルネコの行動に及ぼす影響、波の有無によるフンボルトペンギンのプール利用変化、飼育下アマミトゲネズミの日周活動性の季節変化、クオッカの腸内細菌叢解析、コアラの性格における遺伝的影響、獣舎転居がキリンの行動および糞中コルチコステロン濃度に与える影響、コンタクト方法およびイベント参加回数がテンジクネズミに及ぼす影響、初めての搾乳体験が牛の行動と生理学的指標に与える影響——といったテーマが並ぶ[19]。
対象を見てほしい。コアラ、クオッカ、マヌルネコ、アマミトゲネズミ、フンボルトペンギン、キリン、テンジクネズミ、牛。これは、この園が歴史のなかで蓄積してきた担当種のリストとほぼ完全に一致する。
さらに、研究テーマには来園者側を対象としたものも含まれている。動物園における空間ごとの利用者特性とサインの利用実態、動物園におけるガイドにみられる実践知と教育的役割、コツメカワウソの展示解説の効果、そして「動物園・水族館のSNSにはなぜ批判や誹謗・中傷がほぼ見られないのか」[19:1]。
飼育対象だけでなく、教育行為そのものが研究対象になっている。遠藤悟朗が一九七一年に社会教育の問題として論じたものが、五十年後、共同研究のテーマ一覧に載っている。
7. 人物史——ヒーローではなく「継承」で読む
三人を並べても、まだ足りない
ここまで登場した人物を整理しておく。
遠藤悟朗は、教育思想を持ち込んだ世代である。一九四九年に上野動物園に採用され、子供動物園を担当し[5:3]、一九七一年に「子ども動物園の創造」を[6:1]、一九七八年に『子ども動物園』を著し[7:1]、一九七五年には日本動物園水族館教育研究会の初代会長となり[8:2]、一九八〇年に埼玉県こども動物自然公園の初代園長に就いた。そしてコウノトリの導入を先導した[11:1]。
日橋一昭は、教育を保全・国際的繁殖政策へ拡張した世代である。一九五三年生まれ、一九八〇年の開園時から同園に勤務した[20]。開園間もなくコウノトリの野生復帰構想に関わり[10:2]、後年は日動水の生物多様性委員会委員長として、コレクションプランニング、園館間協力、ブリーディングローンを軸とした保全観を公の場で明確に語っている[2:6]。
田中理恵子は、専門飼育と海外現地交流を長期的な組織能力へ変換した世代である。一九八〇年の開園当日に高校生として訪れ、一九八六年に入職し、コアラと有袋類を担当し、私的な渡航を重ねて現地の飼育者との関係を作り、クオッカ受け入れとWAZA加盟の時期に園長を務めた[12:8]。
小山良雄をはじめとする現場の担当者は、担当種研究を展示と国際交流へ変換した実践者である。ペンギンヒルズとプーズーはその産物である[14:2][13:4][16:1]。
継承の「現場」が記録に残っている
ここで、本稿がもっとも重要だと考える資料を示したい。
日本動物園水族館教育研究会の発表演題を通史的に整理した高橋宏之の論文には、一九七五年から一九九八年までの全発表演題の一覧が収録されている[9:1]。この一覧を追うと、埼玉の人物たちの登場の仕方が見える。
第一回研究会の最初の演題は、遠藤悟朗「動物園での教育活動について——動物園教育の目標と教育技術について——」である[9:2]。
日橋一昭は第五回に「動物園におけるボランティア活動について」、第十一回に「埼玉県こども動物自然公園の紹介」、第二十四回に「zooオリエンテーリング——ふんの展示」、第二十五回に「埼玉県こども動物自然公園内の自然についての活動」で登場する[9:3]。
そして第二十六回研究会。ここで遠藤悟朗が講演「動物園教育概論」を行い、同じ回で日橋一昭・田中理恵子の連名で「サマースクールの企画と実施」が発表されている[9:4]。
第二十六回に、初代園長と、開園時からの職員と後輩が並んでいる。しかもテーマは、遠藤が上野で一九四九年に始めた、あのサマースクールである[5:4]。
継承というのは、多くの場合、記録に残らない。しかしこの園については、継承が起きていた場そのものが、第三者の学術論文の資料一覧の中に残っている。
なお、同じ一覧には内海起司「埼玉県こども動物自然公園の野鳥」(第十四回)、太田雅昭「埼玉県こども動物自然公園における環境教育」(第三十回)も見える[9:5]。この太田雅昭は、高橋論文の謝辞において、日本動物園水族館教育研究会事務局(埼玉県こども動物自然公園)の担当者として、過去の研究会開催一覧などの資料を提供した人物として名前が挙がっている[9:6]。園長でも有名飼育員でもない職員が、全国の動物園教育の記録を保管していた。
一人の英雄では説明できない
遠藤だけでも、日橋だけでも、田中だけでも、現在の埼玉県こども動物自然公園は説明できない。
特徴的なのは、各世代の個人が作った知識・人脈・技術・施設が、その人物の異動や退職や死後にも園内に残り、次の世代がそこへ別の専門性を追加していったことである。コウノトリは遠藤の死後に孵った[11:2]。ペンギンヒルズはチリとの関係を生み、その関係がプーズーを連れてきた[13:5]。田中の私的な渡航が積み上げた信用が、四十周年のクオッカになった[12:9]。
俗に言うなら「変な奴が許される文化」ということになるのだろう。本稿でこれを論文的に言い換えるなら、専門職の自律性と蓄積を許容する組織文化、となる。ただしこの表現には注意が必要で、それは第9章で扱う。
8. 展示思想——動物ではなく「動物の生活」を見せる
家畜展示は原点であって、余興ではない
同園の家畜展示は、しばしば「ふれあいコーナー」として片づけられる。しかし園の説明を読むと、位置づけは明確に教育である。乗馬体験、ウサギやテンジクネズミとのコンタクト、搾乳体験といった家畜とのアクティビティは、情操教育だけでなく家畜への理解や食育にもつながる、とされている[1:3]。
日橋も環境省の検討会で、なぜ牛を飼っているのかと問われ、牛は開園当時からいる、じゃがいもを植えて牛乳からバターを作り、じゃがバターを食べるという食育に結びつけている、と答えている[2:7]。この受け答えに対し、委員からは、家畜重視で動物園をスタートさせたのは珍しく、食育は動物園の公的機能のひとつの可能性を示している、というコメントが返っている[2:8]。
そして二〇二三年度の共同研究には「初めての搾乳体験が牛の行動と生理学的指標に与える影響」がある[19:2]。ふれあいをやっている側が、ふれあわれる側への影響を測定している。
さらに埼玉県の公文書には、「こども動物自然公園設立時の基本方針に従った継続的な啓蒙普及活動」という見出しのもとに、次のような記載がある。ポニー乗馬コーナーでは開園日はいつでもふれあい乗馬体験ができる(多くの動物園は土日祝日のみ、または外部委託)。乳牛コーナーでは平日も含めた一日三回の展示搾乳を継続しており、これは公立の施設では当園のみである(多くの動物園では牛の一時レンタルや外部委託による)。しかも人工授精師免許を持つスタッフのもとで繁殖のコントロールを行っている[3:5]。
これは重要である。四十五年前の設立時の基本方針が、現在の行政文書のなかで、外部委託していないことという具体的な運用として説明されている。理念が残るというのは、往々にしてこういう地味な形をとる。
四つの施設に共通するもの
家畜展示、ペンギンヒルズ、ecoハウチュー、そしてアマミトゲネズミ。並べると、共通する設計思想が見えてくる。
- 家畜:人間と家畜の関係、身体、行動、食、生活を理解させる[1:4]
- ペンギンヒルズ:生息地の環境を再現し、動物が人との距離を自分で選べるようにする[14:3]
- ecoハウチュー:分類学上の知名度ではなく、生態的多様性を軸に種を選ぶ[17:2]
- アマミトゲネズミ:保全・研究と展示を切り離さず、飼育技術が確立してから公開する[18:1]
いずれも、動物を人間に見せるための「展示物」として扱うのではなく、その動物が何をしてどのように生活しているかを人間が理解するための環境を作る、という発想に立っている。
「四十五年間、まったく同じ理念が維持された」とは言えない。動物福祉、行動展示、生態展示、エンリッチメントといった概念は、いずれも開園時代には現在の形で存在していない。
より正確にはこうだろう。教育を重視する初期思想が、その後に登場した動物福祉・行動展示・生態展示・繁殖研究・域外保全といった新しい動物園思想と親和的だったため、園はそれらを次々に吸収しながら発展できた。
9. 考察——「組織文化」で読む
「ヒーロー型動物園史」との違い
著名な動物園の歴史は、しばしばこう語られる。危機があり、改革者が現れ、新しい展示思想が導入され、成功する。旭山動物園の物語がその代表である。
この語り方は説明モデルとして強力だが、実際の施設運営には多数の職員・担当者・技術者が関与しており、単純化を伴う。
埼玉の場合、現段階で確認できる歴史はこのモデルと形が異なる。大きな危機と一人の改革者によって現在の形へ転換したというより、個々の担当者の専門性が数十年にわたって堆積しているように見える。ドラマとしては地味だが、組織論としてはこちらのほうが再現可能性が高い。
「変な奴文化」という分析概念について
本稿では「変な奴文化」という俗語を多用しないが、分析の出発点としては有用である。ここで意味しているのは、特定分野へ強い関心を持つ飼育担当者が、自ら調べ、現地へ行き、専門家とつながり、それを展示・繁殖・研究へ発展させることを許容する文化である。
この文化を示す材料は二つある。ひとつは、複数世代の飼育担当者が実際にそう行動していたという事実。もうひとつは、担当者本人が「飼育係はいくらでもクリエイティブになれる」と語っていること[15:4]である。
ただし、それが意図的に設計された制度だったと断定するには、直接的な内部資料——人事方針、職員配置の記録、当時の管理職の判断が残る文書——が不足している。
したがって正確にはこう書くべきだろう。複数世代の行動と当事者の言葉から、そのような組織文化の存在が推測できる。ただしそれが設計の産物か、結果として生じたものかは、現時点では判別できない。
なお、田中が一九九〇年代の渡航を「すべてプライベートな旅行だった」と述べていることは[12:10]、この文化の性質を考えるうえで示唆的である。それは制度によって保障されたものではなかったかもしれない。むしろ、個人の行動を組織が妨げなかった、というくらいの表現が実態に近い可能性がある。
珍獣園ではなく「専門性のポートフォリオ」
以上を踏まえると、現在の飼育動物群は「コレクション」としてではなく、歴代職員が蓄積してきた専門分野のポートフォリオとして読むことができる。
有袋類。希少鳥類。南米動物。小型齧歯類。マヌルネコ。地域希少種。家畜。
一見まとまりのないこのラインナップは、園の歴史そのものを反映した構成である。どの動物にも、その動物がここにいるための人間側の履歴がある。
そしてこの読み方をすると、日橋が語っていた「箱舟の定員」の一番目——日本で飼育できる希少種——という基準の意味がより明確になる[2:9]。「飼育できる」という条件は、施設だけの話ではない。その種を飼える人間がここにいるか、という条件である。だから専門性が増えるほど、飼える動物が増える。
アマミトゲネズミの飼育園館に選ばれた理由が「げっ歯類の飼育繁殖実績が多いから」だった[3:6]という一行は、この構造をそのまま言語化している。ポートフォリオは、次に何を任されるかを決める。
10. 結論
冒頭の問いに戻る。なぜ埼玉県こども動物自然公園には、一見すると奇妙な飼育動物が多いのか。
答えは、変わった動物を集めること自体を目的としたからではない、である。
一九八〇年の開園時に持ち込まれた動物園教育の思想[6:2][7:2][9:7][5:5]。遠藤悟朗から日橋一昭らへ受け継がれた教育・保全への関心[10:3][11:3]。コアラを契機として蓄積された高度な専門飼育技術[12:11]。田中理恵子らによる海外現地交流[12:12]。担当種を生息地まで調べに行き、展示へ反映した飼育員たち[14:4][13:6]。譲渡・交換・ブリーディングローンを軸とする国内外の繁殖ネットワーク[2:10]。大学・研究機関との共同研究[19:3]。
これらが数十年積み重なった結果として、「この園だから飼える動物」が増え続けた。
したがってこの園の特徴は、珍獣を集める能力ではない。飼育員の専門性を組織能力へ変換し、それを次世代へ残す能力である。
現在の独特な飼育レパートリーは、この園が四十五年かけて蓄積してきた知識・技術・人間関係が、生き物の姿をとって可視化されたものだと言っていい。
ecoハウチューでウスイロホソオクモネズミの前に立ったとき、あなたが見ているのは珍しいネズミではない。そのネズミを飼えるようになるまでにこの組織が積み上げたものを見ている。
そう考えると、あの奇妙なラインナップは、少しも奇妙ではなくなる。
11. 本稿で確認できなかったこと
論文としての誠実さのために、本稿が確認できなかった事項を明示しておく。
- 遠藤悟朗の没年。本稿が参照した資料は彼を「故人」「初代園長の故遠藤悟朗氏」と記すのみで[11:4][8:3]、没年を特定できる資料に到達できなかった。よって本稿では没年を記していない。流通している具体的な年についても、裏づけが取れないため採用していない。
- 一九七八年二月の原計画書そのもの。三つの基本理念と計画年月については、埼玉県が現在も公表している沿革・設置目的から確認できる[3:7][4:1]。ただしこれはあくまで現行文書に記載された沿革であって、一九七八年当時に作成された計画書そのものではない。当時の文書が確認できないため、なぜ埼玉県が遠藤悟朗を初代園長に選んだのかという、本稿にとって決定的に重要な問いは未解決のまま残る。
- 一九八〇〜二〇〇〇年代の園報・周年誌。動物導入、施設建設、職員配置を年表化できれば、本稿の仮説は検証も反証も可能になる。現状ではできていない。
- 「担当飼育員が専門性を深掘りすることを許す文化」が制度として意図的に設計されたのかどうか。本稿は複数世代の行動からその存在を推測しているが、意図的な制度設計だったと示す資料は見ていない。
最後に、確認できていないにもかかわらず魅力的すぎるので、あえて仮説のまま置いておく二点を記しておく。
ひとつ。遠藤悟朗自身が、現在の希少種中心のコレクション方針まで意図して設計したのか。 本稿の見立てでは、していない。彼が置いたのは教育の土台であり、そこに何を載せるかは後の世代が決めた。
ふたつ。大型猛獣を持たなかったことが、小型希少種へ向かう直接の原因だったのか。 日橋の証言は開園時の計画変更までを語るにとどまり[2:11]、その先の四十年を説明していない。相性が良かった、という以上のことは言えない。
この二つを断定しないほうが、この園の話は面白い。誰も設計していなかったものが、四十五年かけて形になったというほうが、はるかに稀有なことだからである。
この園を歩くとき、「なぜこの動物がここにいるのか」と問うてみてほしい。その問いの答えは、たいてい動物ではなく、人間の側に書かれている。
☕️よかったらコーヒー一杯。 https://buymeacoffee.com/mink_obs
著:霧星礼知(min.k) / リサーチ・構造支援:Claude Sonnet 4.6、ChatGPT / AI-assisted / Structure observation
For international readers
Saitama Children's Zoo, in Higashimatsuyama, Japan, keeps an oddly assorted collection: koalas, quokkas, pudús, Pallas's cats, gundis, Amami spiny rats, Humboldt penguins — and dairy cows. It has no lions, elephants or tigers. This essay asks how a prefectural zoo that opened in 1980 with livestock and a handful of birds became a breeding, research and ex-situ conservation institution holding species found nowhere else in Japan.
The answer, the essay argues, is not a deliberate policy of collecting rarities. It is an accumulation. The founding director, Gorō Endō, arrived in 1980 already carrying a fully formed philosophy of zoo education, developed over three decades at Ueno Zoo's children's zoo and set out in publications from 1971 and 1978. His successor, Kazuaki Hibashi, extended that educational foundation into conservation policy, stating publicly that if you are going to keep an animal at all, you should keep an endangered one. Rieko Tanaka, who first visited the zoo as a high-school student on its opening day and joined the staff in 1986 alongside its first koalas, spent decades building personal relationships with Australian keepers — initially on private holidays — that eventually earned the zoo the trust required to receive quokkas in 2020. Keepers sent to Chiloé Island in Chile to study wild Humboldt penguins came back with a habitat-modelled exhibit and, later, a relationship that brought Japan's first pudús.
The essay names the underlying mechanism "the self-propagation of expertise": deep husbandry knowledge produces international relationships, relationships produce trust, trust produces access to further rare species, which in turn deepens expertise. What looks from outside like an eccentric menagerie is better read as a portfolio of accumulated specialisms — a visible record of what forty-five years of institutional memory can hold.
The piece deliberately resists the heroic narrative common in zoo histories, and closes by listing what its sources could not establish.
Keywords
Saitama Children's Zoo, zoo education, ex-situ conservation, institutional knowledge transfer, keeper expertise, Gorō Endō, Kazuaki Hibashi, Rieko Tanaka, quokka, pudú, Humboldt penguin, Amami spiny rat, collection planning, breeding loan, WAZA, organizational culture, Japanese zoos, environmental enrichment
埼玉県こども動物自然公園、動物園教育、生息域外保全、遠藤悟朗、日橋一昭、田中理恵子、飼育専門性、組織文化、知識継承、コレクションプランニング、ブリーディングローン、クオッカ、プーズー、ペンギンヒルズ、ecoハウチュー、アマミトゲネズミ、コウノトリ、動物福祉、エンリッチメント、動物園論
公益財団法人埼玉県公園緑地協会「埼玉県こども動物自然公園について」埼玉県こども動物自然公園公式サイト。https://www.parks.or.jp/sczoo/guide/000/000193.html (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
環境省『平成25年度 第2回 動植物園等の公的機能推進方策のあり方検討会 議事録』二〇一三年十一月二十八日、講演者:日橋一昭(埼玉県こども動物自然公園園長)。https://www.env.go.jp/nature/report/h26-01/mat2_2.pdf (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
埼玉県『こども動物自然公園 現況調書』(令和五年度、指定管理者公募関係資料)。公園の設置目的と三つの基本理念、飼育総数一六三種二一四七点(令和五年三月末現在)、日本動物園水族館協会における種別計画管理者・国際血統登録者としての役割、トゲネズミ類生息域外保全における三園館への選出理由、プーズーのワシントン条約附属書I該当と学術目的輸入、ブリーディングローンの借受二七件・貸出四一件、動物の輸出入、ecoハウチューおよびクオッカアイランドの開設経緯、設立時の基本方針に従った啓蒙普及活動(乗馬・展示搾乳の直営継続)について。https://www.pref.saitama.lg.jp/documents/238566/r5genkyoutyousyo_kodomo_0829.pdf (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
埼玉県「こども動物自然公園」埼玉みどりのポータルサイト(埼玉県公式)。昭和五十三年二月の計画立案と三つの基本理念、昭和五十五年五月の開設に関する現在の沿革記載。https://midorinoportal.pref.saitama.lg.jp/ (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎
野村卓・酒巻菜緒子・落合かほる・大沼龍之介・杉本優・阿部歓乃「動物園における教育的機能の展開と教育領域の再検討——学校との連携教育と動物との共生教育から構成される動物園教育の枠組み」『ESD・環境教育研究』第二十三号、北海道教育大学釧路校ESD推進センター、二〇二一年、一〜一〇頁。上野動物園子供動物園の成立、遠藤悟朗の一九四九年採用、遠藤による沿革三期区分について参照。https://hokkyodai.repo.nii.ac.jp/record/8934/files/ESDkankyokyoiku_23-1_1-10.pdf (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
遠藤悟朗「子ども動物園の創造(社会教育実践史42)」『月刊社会教育』十五巻十二号(通巻一六九号)、旬報社、一九七一年十二月、四〇〜四八頁。書誌情報はCiNiiにて確認。https://cir.nii.ac.jp/crid/1520010380700045696 (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎ ↩︎
遠藤悟朗『子ども動物園』フレーベル館〈フレーベル新書21〉、一九七八年。書誌情報はCiNii Researchにて確認。https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA39799329 (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎ ↩︎
日本動物園水族館教育研究会「発祥と経緯」。一九七五年設立、初代会長・遠藤悟朗、事務局の変遷(日本モンキーセンター→埼玉こども動物自然公園→海の中道海洋生態科学館)について。https://jzae.jp/keii/ (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
高橋宏之「生涯学習社会における動物園教育の取り組みについて(Zoo Education in the Lifelong Learning Society)」『博物館学雑誌』第二十五巻第一号(通巻三十一号)、全日本博物館学会、一九九九年九月、一〜一七頁。日本動物園水族館教育研究会の設立経緯、広瀬鎮による遠藤悟朗評、第一回〜第三十九回の全発表演題一覧、および謝辞を参照。https://museology.jp/journal/25-01/25-01_pp01-17.pdf (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
日橋一昭「関東エコ・ネット推進協議会 委員のみなさんからのメッセージ」関東エコロジカル・ネットワーク推進協議会設立十周年シンポジウム資料、国土交通省関東地方整備局。執筆時の肩書は那須どうぶつ王国 教育・普及啓発プロデューサー、コウノトリ飼育・放鳥条件整備専門部会 副部会長。https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000871870.pdf (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
畑山望「埼玉こども動物自然公園、念願のニホンコウノトリのヒナ3羽誕生」『リセマム』株式会社イード、二〇一五年五月二十七日。一九八八年四月の中国からの受け入れ、二十七年間の繁殖不成立、二〇一四年の孵化と死亡、二〇一五年五月五日・七日の孵化について。https://resemom.jp/article/2015/05/27/24765.html (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
在日オーストラリア大使館「埼玉県こども動物自然公園・田中理恵子園長に聞く——オーストラリア人に学ぶ野生動物と共存する未来」。https://japan.embassy.gov.au/tkyojapanese/Saitama-Children-zoo.html (二〇二六年八月十六日参照。なお同園の現園長は野口幸子であり[1:5]、本稿は田中を園長在任時の証言者として扱う) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
川内イオ「ほかでは見られない動物に会いに行こう!埼玉県こども動物自然公園」『ippo』(稀人ハンター川内イオの東奔西走記)。ペンギンヒルズ設計時のチロエ島への飼育員派遣、二〇一六年夏のチリ国立サンチアゴ・メトロポリタン公園からのプーズー寄贈、プーズー担当飼育員の発言について。取材は二〇一七年実施、記事は二〇二一年四月掲載。https://www.ippo-kenko.jp/serialization/marebito22_saitamazoo/ (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
市民ZOOネットワーク「エンリッチメント大賞2011」施設賞・ペンギンヒルズ(埼玉県こども動物自然公園)審査委員コメント。https://www.zoo-net.org/enrichment/award/2011/ (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
川内イオ「世界最小の鹿を“のぞき”に行きませんか? 埼玉にプーズーがやってきた!」『未知の細道』No.90、NEXCO東日本「ドラぷら」、二〇一七年五月十日。ペンギンヒルズの飼育係長でプーズーの飼育も担当する小山良雄について、写真キャプションに「飼育係はいくらでもクリエイティブになれる」と記載。あわせてチリ視察を機とするプーズー寄贈の経緯、山から採った葉を給餌する理由についても本人が語っている。https://www.driveplaza.com/trip/michinohosomichi/ver90/03.html (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
越谷市立図書館「【ご報告】開館40周年記念ワークショップ『飼育員さんに聞いてみよう!ペンギンのひみつ』を開催しました」二〇二三年十一月十二日開催。埼玉県こども動物自然公園の飼育員・小山良雄の招聘、および片野ゆか『しあわせ動物園 スゴイ飼育員さんの本当の話』(ポプラ社)への登場について。https://lib.city.koshigaya.saitama.jp/viewer/info.html?idSubTop=1&id=411 (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎
公益財団法人埼玉県公園緑地協会「ecoハウチュー(小動物舎)」埼玉県こども動物自然公園公式サイト。https://www.parks.or.jp/sczoo/guide/004/004272.html (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎ ↩︎
公益財団法人埼玉県公園緑地協会「アマミトゲネズミの一般公開を開始します(4/5)」二〇二四年三月二十八日掲載、埼玉県こども動物自然公園公式サイト。https://www.parks.or.jp/sczoo/news_special/detail/005951.html (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎
公益財団法人埼玉県公園緑地協会「埼玉県こども動物自然公園の研究活動」埼玉県こども動物自然公園公式サイト。二〇二一〜二〇二六年度の共同研究一覧。https://www.parks.or.jp/sczoo/guide/004/004467.html (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
愛媛県立とべ動物園「第1回 日橋一昭氏」とべ動物園公式サイト掲載資料。日橋の生年および一九八〇年からの埼玉県こども動物自然公園勤務について。https://www.tobezoo.com/tobetopics/2018/05/21/20180521113742-6a599ca33380f50b43c3444d521eaef5c85d1d67.pdf (二〇二六年八月十六日参照) ↩︎