タイ旅行から帰ってきて、考えたことがある。
私たちの社会は、優しい人を育てているのだろうか。それとも、優しい人を利用する技術ばかりを発達させているのだろうか。
例えば、誰かが問題を起こしたとする。
本来なら、問題を起こした本人や、その場に責任を持つ人間が対処すべきだろう。
しかし、実際にはそうならないことがある。
誰も動かない。誰も責任を取らない。困っている人がいても、見て見ぬふりをする。
しばらくして、見かねた誰かが動き出す。
その人は、特別な権限を持っているわけでも、対処する義務があるわけでもない。ただ、困っている人を放っておけなかっただけだ。
ところが、一度その人が問題を解決すると、周囲は学習する。
「あの人に任せれば何とかなる」
こうして、善意はいつの間にか無償の労働力へと変わっていく。
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この構造の恐ろしさは、責任を果たさないことが合理的な選択になってしまう点にある。
問題を起こしても、誰かが片付けてくれる。面倒なことに関わらなければ、自分の負担は増えない。
反対に、責任感を持って行動する人ほど、仕事や負担を抱え込む。
つまり、誠実に振る舞うほど損をし、無責任に振る舞うほど得をする。
しかも、この不均衡はしばしば美しい言葉によって正当化される。
「みんなで助け合おう」
「困ったときはお互いさま」
「仲間なんだから」
本来、相互の善意を前提とするはずの言葉が、一方的な負担を要求する道具になる。
助ける側には思いやりが求められるのに、助けられる側には責任も感謝も求められない。
これは助け合いではない。善意へのただ乗りである。
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さらに問題なのは、こうした関係が繰り返されることで、人間関係や組織そのものが、善意を利用する方向へ最適化されていくことだ。
誰かが引き受けてくれる限り、仕組みを改善する必要はない。責任の所在を明確にする必要もない。問題を起こした人間の行動を改めさせる必要さえない。
そして、優しい人が負荷に耐えきれずに去ると、周囲は言う。
「あんなに面倒を見てくれていたのに」
まるで、善意を提供し続けることが、その人の義務だったかのように。
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さらに一言。
こういう時、よく言われるのは「背負ってしまう側は、断る勇気を持とう」という助言である。しかし、それだけでは問題の本質を捉えられない。
なぜなら、断る勇気を持たなければならない状況そのものが、すでに不健全だからだ。
優しさとは、自発的なものである。社会は人々に優しさを期待することはできても、それを義務として課してはならない。優しさは、誰かを助けたいという気持ちから生まれる行動であって、他人が当然のように要求してよいものではない。
善意を受け取った人が、その価値を理解し、感謝し、次の誰かに返していく。そうした関係の中でこそ、優しさは育つ。
しかし、善意を利用することが合理的な社会では、優しい人ほど他人を助けなくなっていく。
それは、その人が冷たくなったからではない。
優しさを守るために、優しさを差し出す相手を選ばざるを得なくなったのである。
優しい人がいなくなったのではない。優しい人が、優しくすることをやめたくなる社会を、私たち自身が作っているのではないか。