動物園の「外側」にいた人——正田陽一と、四十年かけて繋がれた人と制度
The Man Who Stood Outside the Zoo — Yoichi Shoda and Forty Years of Connecting People and Institutions
著:霧星礼知(min.k)|mncc.info / Author: Reichi Kirihoshi (mncc.info)
正田陽一(しょうだ・よういち、1927–2016)は、もともとは東京大学の家畜育種学者であるが、戦後日本の動物園界にかなり深く入り込んだ人物である。
園長や飼育技師として動物園に勤めた人物ではなく、研究者・動物園運営側・ボランティア・市民をつなぐ「外部のキーパーソン」 と見るとわかりやすい。日本動物園水族館協会(JAZA)の顧問も務めており、動物園だけでなく水族館を含む業界全体との関係を持っていた。[1]
1. 本業は「家畜育種学」
正田は1927年3月31日、東京に生まれた。1950年に東京大学農学部畜産学科を卒業し、東大で助手、助教授を経て、1979年に教授となった。専門は家畜育種学である。その後、1987年から1992年まで茨城大学農学部教授を務めた。家畜品種や育種の研究・普及では第一人者の一人であり、『世界家畜図鑑』の監修や、『品種改良の世界史 家畜編』の編者なども務めている。[1:1]
ここは重要な点である。正田は単なる「動物好きの大学教授」ではない。飼育下集団の遺伝、品種、繁殖という、現代の動物園における個体群管理と非常に近い専門分野を持っていた人物なのである。
2. 1974年、日本初期の「動物園ボランティア」をつくる
正田の動物園史上の大きな仕事の一つが、**東京動物園ボランティアーズ(TZV)**への関与である。
1970年代初頭、上野動物園では、欧米の動物園で行われていた来園者向けボランティア活動を日本でも導入しようという動きが生まれた。正田は当時、東京大学助教授としてその準備段階から参加し、1974年のTZV発足時に初代幹事長となった。これは日本における動物園ボランティア活動の先駆的事例である。[2]
発足の経緯は記録に残っている。1974年5月、上野動物園で「動物園におけるボランティア組織の結成について」という懇談会が開かれた。主導したのは当時の飼育課長・中川志郎である。中川はヨーロッパの動物園・水族館を視察し、市民ボランティアが社会教育の機能を支えている状況を見てきていた。懇談会に集まったのは動物愛好会や昆虫愛好会の会員など約20人で、その一人が東京大学助教授だった正田である。この会で「東京動物園ボランティアーズ」という名称が決まり、正田は準備委員に選ばれた。同年10月10日に設立総会が開かれ、初代幹事長となる。[2:1]
正田は参加者としてではなく、最初から組織をつくる側にいた。1974年の段階ですでに、動物園側から「動物園の教育や市民参加を一緒に考えられる大学人」と見られていたことになる。
当時の上野動物園側には、西山登志雄、そして後に園長となる中川志郎らがいた。設立後は西山ら普及指導係が講習や実習を担当し、活動の内容は動物園とボランティアが共同でつくっていった。[2:2] つまり正田は、
中川志郎・西山登志雄ら動物園職員側
+
正田陽一ら研究者・市民側
という、日本の動物園教育普及の一つの流れの中にいた人物である。[2:3]
そして、この東京動物園ボランティアーズに学生時代に参加した人物の一人が、後に日本の動物園界で重要な役割を担うことになる日橋一昭である。
しかも日橋は、単に後年参加したのではなく、1974年の第1期生である。日橋は東京経済大学経営学部在学中の昭和49年(1974年)にTZV第1期生として動物園に関わり始め、その後1980年に埼玉県こども動物自然公園の開園時スタッフとなった。三鷹ネットワーク大学の公式プロフィールにも、この経歴が明記されている。[3]
そして、ここで正田陽一と日橋一昭が同じ1974年に接続する。
正田陽一は、1974年に発足したTZVの初代幹事長であった。[1:2]
一方、日橋一昭は、その1974年の第1期ボランティアであった。[3:1]
つまり、かなり単純化すれば、
正田陽一=TZVを立ち上げ、運営する側
日橋一昭=その第1期生として参加した大学生
という関係になる。
しかもこれは、単なる年代上の一致ではない。後年の資料でも、両者のつながりは確認できる。市民ZOOネットワークが正田の功績を記念して「正田賞」を創設した際、正田にゆかりの深い人物として川端裕人・日橋一昭・本田公夫の3人による対談が行われている。[1:3]
したがって、日橋一昭のキャリアを考える上で、TZV参加はかなり重要な出発点である。
その流れを整理すると、
大学生の日橋一昭
→ 1974年、TZV第1期生
→ 正田陽一らと接点
→ 動物園活動に深く関わる
→ 1980年、埼玉県こども動物自然公園
→ 飼育・繁殖・教育普及に従事
→ 園長、JAZA生物多様性委員長等
という経路が見えてくる。
富士フイルムの公式プロフィールでも、日橋について「大学時代に東京動物園ボランティアーズに参加したことをきっかけに動物園生活にどっぷり漬かる」と紹介されており、本人の動物園人生の出発点としてTZVが明確に位置づけられている。[4]
この点は、正田陽一を考える上でも興味深い。
正田を調べていくと、単に東京動物園協会やJAZAの顧問を務めた研究者というだけではなく、後に日本の動物園界で重要な役割を担う人物が動物園に入っていく入口にも関与していたことが見えてくる。
日橋一昭は、その具体例の一人である。
したがって、正田陽一について記述する際には、東京動物園ボランティアーズの説明に、
「第1期生の中には、後に複数の動物園で園長を務め、日本動物園水族館協会でも要職を担った日橋一昭がいた」
という事実を加えるとよい。
そうすることで、TZVが単なる来園者向けボランティア制度ではなく、日本の動物園界に人材を送り出す一つの入口としても機能していたことが具体的に見えてくる。
正田はその後も約40年間TZVを支え、2004年から2015年まで会長を務め、退任後は顧問となった。[1:4]
3. 東京動物園協会の中枢にも入る
正田は1981年から東京動物園協会の評議員となり、その後、理事、副会長などを歴任し、2006年から顧問となった。東京動物園協会は現在、上野動物園・多摩動物公園・葛西臨海水族園・井の頭自然文化園の運営に深く関わる組織であるため、この段階になると正田は単なる動物園ボランティアの関係者ではなく、動物園運営を支える組織の中枢にも関与した人物といえる。[1:5]
また、雑誌『どうぶつと動物園』の編集委員も務めた。
こうした功績から、2008年には東京動物園協会創立60周年記念式典において、協会の動物園事業の発展に大きく寄与した人物として総裁賞を受賞した。[5] 協会の事業報告では、これが第3回の総裁賞にあたると記録されている。[6]
この式典での受賞挨拶で、正田は協会との関わりを、『どうぶつと動物園』に書いた「キリンの模様」の記事から語り始めている。そのうえで上野動物園100周年記念講演会や、TZV設立後の活動について触れた。[5:1]
本人が協会との関係を、TZVではなく雑誌への寄稿から語り出しているところは見落とせない。正田と動物園側との接点は、1974年より前にすでにあったとみるほうが自然である。ただし「キリンの模様」の記事については、掲載号も掲載年も特定できていない。いつから、誰を介して動物園関係者と交流していたのかは、まだわからないままである。
4. JAZAでは「顧問」を務める
水族館との関係で特に重要なのが、正田が日本動物園水族館協会(JAZA)の顧問を務めていたことである。
JAZAの機関誌『動物園水族館雑誌』には、正田の死後、
元日本動物園水族館協会 顧問 正田陽一氏 追悼
という記事が複数号にわたって掲載されている。また正田自身も、同誌第50巻の記念号に「『動物園水族館雑誌50巻』を迎えて」を寄稿している。[7]
この寄稿で正田は編集顧問の立場から、創刊号で古賀忠道が示した理念——各園館の研究や観察、資料を広く共有する場としてこの雑誌を育てる——を振り返っている。[8] 動物園を研究・教育の機関として考える古賀の路線を、正田が意識していたことはここから読み取れる。もっとも、二人がいつ知り合ったのか、古賀が正田をTZVに誘ったのか、1974年以前に個人的な関係があったのかまでは確認できていない。師弟関係として書くのは避けておく。
したがって、正田は単に「動物園の人」というだけではなく、制度上は動物園・水族館業界双方を包含する全国組織に関与した学識経験者だったといえる。
ただし、確認できる資料の範囲では、特定の水族館で館長や職員として勤務した経歴は見当たらない。水族館との関係は、主としてJAZAや研究、政策、施設評価などを介したものと考えるべきである。
5. 動物園を「種の保存施設」として考える
晩年の活動を見ると、正田の動物園観がかなり明確に現れている。
正田は 「国立動物園をつくる会」 の顧問を務め、日本にも種保存や研究の中核となる国立動物園が必要ではないかと提言していた。本人は、希少種保全には国際協力が必要であり、その際に国立レベルの基幹動物園が存在することには意味がある、という趣旨の発言をしている。[9]
2012年の第1回シンポジウム「動物園は野生動物を救えるか―新たなる動物園への道」でも、顧問として開会挨拶を担当した。代表は旭山動物園元園長の小菅正夫であり、ほかに到津の森公園の岩野俊郎らが参加している。[10]
つまり正田は、晩年になるほど、
展示施設としての動物園
→ 教育施設
→ 動物福祉
→ 希少種の保存
→ 科学研究
→ 市民参加
という複数の役割を統合した施設として動物園を考えるようになっていたとみることができる。
6. 動物福祉・環境エンリッチメントにも早くから関与
2002年に市民ZOOネットワークが始めたエンリッチメント大賞では、開始時から2016年に亡くなるまで審査委員を務めた。
同団体は正田について、専門は家畜育種学であったものの、動物園における種保存、教育、市民連携、動物福祉、そして「人が楽しめる動物園」の両立に関心を持っていたと記している。[1:6]
2022年にはその功績を記念して、エンリッチメント大賞の中に 「正田賞」 が新設された。これは、市民への動物福祉の伝達や、市民との連携に優れた活動を評価する賞である。[1:7]
この賞は、正田の活動の特徴をよく表している。正田は動物園を専門家だけの閉じた世界としてではなく、研究者、飼育者、市民、来園者が関係し合う場として捉えていた人物であった。
7. アクアマリンふくしまにも来館している
正田と水族館との具体的な接点として、興味深い記録も残っている。
東日本大震災で被災したアクアマリンふくしまは2011年7月15日に再開館したが、その前日の7月14日に正田が同館を訪れている写真が市民ZOOネットワークに残されている。同サイトでは「再開館に駆けつけた時」と説明されている。[11]
したがって、安部義孝やアクアマリンふくしま周辺の人脈を調べる中で正田の名前が現れることは不自然ではない。
8. なぜ家畜育種学者が動物園に関わったのか
正田の専門は家畜育種学である。動物園学でも野生動物学でもない。[1:8]
ただ、家畜育種学は、人間が動物をどう飼い、どう繁殖させ、どの形質を選び、どういう関係を結んできたかを扱う学問でもある。動物園と遠い分野に見えて、扱っている対象はかなり近い。市民ZOOネットワークも、正田を畜産学の研究者としたうえで、動物園における種保存、教育、市民連携、動物福祉に幅広く関わった人物として紹介している。[1:9]
そう考えると、正田の関心は動物好きの延長というより、もとの専門から素直に伸びたものだったとみるほうが、後年の活動まで一続きで説明できる。野生動物の研究者が動物園に入ったのではない。人間が動物を扱う仕組みを研究していた人が、動物園という社会装置に関心を持った。
そしてTZVの設立は、正田一人の発案ではなかった。中川志郎が欧州で見てきた社会教育の仕組みを日本に持ち込もうとし、西山登志雄ら普及指導係が講習や実習の実務を担っていた。上野動物園の側に教育普及を変えようという流れがあり、正田の関心とそれが噛み合った。[2:4] 1974年の時点で正田が現在的な意味での「動物園教育」を体系的に構想していたとまでは言えないが、その後の40年を見れば、この出会いが大きかったことは読み取れる。
現時点で確認できる範囲を並べると、こうなる。
家畜育種学者として、人間と動物の関係を研究する
→ 東京動物園協会と接点を持ち、『どうぶつと動物園』にも寄稿
→ 1970年代の上野で進んでいた教育普及改革と出会う
→ 1974年、TZV設立に参加し初代幹事長
→ 市民と動物園をつなぐ実践を40年以上続ける
→ 種保存、教育、動物福祉、エンリッチメント、国立動物園構想まで関心を広げる
未確認のまま残っている点も多い。「キリンの模様」の記事の掲載年と号、正田が東京動物園協会と最初に接点を持った時期、古賀忠道との最初の直接的な接触、中川志郎との関係が1974年以前からあったのか、そして1974年5月の懇談会になぜ正田が呼ばれたのか。正田自身が動物園への関心の理由を語った一次資料が出てくれば、このあたりはかなり埋まるはずである。
9. 動物園史の中での正田陽一の位置
正田陽一を戦後日本の動物園史の中に位置づけるならば、次のように整理するとわかりやすい。
中川志郎・西山登志雄・増井光子・小宮輝之・小菅正夫などが「動物園の内部から日本の動物園を変えた人々」であるとすれば、正田陽一は、
大学・学界・JAZA・東京動物園協会・ボランティア・市民団体を横断しながら、外側から動物園を支え続けた人物
である。
しかもその活動期間は長い。1974年の動物園ボランティア活動から、2000年代の環境エンリッチメント、2010年代の国立動物園構想まで、40年以上にわたって日本の動物園の変化に伴走した人物である。
さらにTZV第1期生の日橋一昭の例を加えると、正田の役割は制度や組織の支援だけではなかったことが見えてくる。正田が関与したTZVは、後に動物園界の中核を担う人物が動物園の世界へ入っていく入口の一つでもあった。正田の影響は、自身が直接動物園を運営することではなく、人と制度をつなぎ、次の世代が動物園に関わる場をつくることにも及んでいたのである。
正田をさらに掘り下げる場合、特に重要なのは、「正田陽一―中川志郎―西山登志雄の関係」、「正田陽一―日橋一昭をはじめとするTZV人脈」、そして 「なぜ家畜育種学者の正田がJAZA顧問まで深く動物園・水族館界に関与したのか」 という点である。これらを追うことで、戦後日本の動物園が「珍しい動物を見せる場所」から、教育・保全・動物福祉を重視する施設へと変化していった際の人的ネットワークがより明確になる可能性がある。
☕️よかったらコーヒー一杯。 https://buymeacoffee.com/mink_obs
著:霧星礼知(min.k) / リサーチ・構造支援:Claude Sonnet 4.6、ChatGPT / AI-assisted / Structure observation
For international readers
Yoichi Shoda (1927–2016) was an animal breeding scientist at the University of Tokyo whose second, less visible career shaped postwar Japanese zoos. He never ran a zoo or worked as a keeper. Instead, he operated at the seams between academia, zoo administration, national industry bodies and the general public: founding secretary-general of Tokyo Zoo Volunteers in 1974, later its chairman for more than a decade; a councillor, director and eventually adviser of the Tokyo Zoological Park Society; adviser to the Japanese Association of Zoos and Aquariums; a judge for the Enrichment Award from its inception; and an adviser to the campaign for a national zoo in Japan.
The founding record shows him in the room from the very start. In May 1974, Shiro Nakagawa, then head of the animal husbandry section at Ueno Zoo and fresh from a European study tour, convened a meeting of some twenty enthusiasts to discuss creating a volunteer body; Shoda was one of them, was named to the preparatory committee, and became secretary-general when the organisation was formally founded that October. His own account of how he came to the society, however, begins earlier still — with an article on giraffe markings he had written for its magazine — which suggests contact predating 1974, though the issue and year have not been identified.
His specialism — genetics, breeds and reproduction in captive livestock populations — turns out to sit remarkably close to modern zoo population management. Seen that way, he was not a wildlife scientist who wandered into zoos, but a scholar of how humans keep and breed animals who became interested in the zoo as a social institution. And the volunteer programme he helped launch became an entry point for people who would later lead the field: Kazuaki Nippashi, a first-year TZV volunteer in 1974, went on to help open Saitama Children's Zoo in 1980 and eventually served as a zoo director and as chair of a JAZA committee. This piece places Shoda in postwar zoo history not as an insider who changed zoos from within, but as someone who supported them from outside for over forty years — and who, in doing so, built the doorways through which the next generation entered.
Keywords
Yoichi Shoda, Tokyo Zoo Volunteers, Japanese zoo history, animal breeding science, Tokyo Zoological Park Society, JAZA, environmental enrichment, animal welfare, species conservation, national zoo, Kazuaki Nippashi, Shiro Nakagawa, Tadamichi Koga, Aquamarine Fukushima, citizen participation, zoo education
正田陽一、東京動物園ボランティアーズ、日本の動物園史、家畜育種学、東京動物園協会、日本動物園水族館協会、環境エンリッチメント、動物福祉、種の保存、国立動物園、日橋一昭、中川志郎、古賀忠道、アクアマリンふくしま、市民参加、動物園教育
脚注
市民ZOOネットワーク「正田陽一先生」
https://www.zoo-net.org/shoda/
※正田陽一の経歴(1927年生、東京大学農学部畜産学科卒、家畜育種学)、東京動物園ボランティアーズ初代幹事長・会長・顧問歴、東京動物園協会での活動、エンリッチメント大賞審査委員、正田賞、動物園における種保存・教育・市民連携・動物福祉への関心、および正田にゆかりの深い人物として川端裕人・日橋一昭・本田公夫による対談が行われたことを参照。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎東京動物園ボランティアーズ「動物園ボランティアとは/ごあいさつ(これまでの歩み)」
https://www.tzv.jp/zoo-volunteer/greeting.html
※1974年5月の懇談会「動物園におけるボランティア組織の結成について」、中川志郎のヨーロッパ視察と主導、約20人の参加者と正田陽一の準備委員就任、同年10月10日の設立総会と初代幹事長就任、および設立後に西山登志雄ら普及指導係が講習・実習を担当したことを参照。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎三鷹ネットワーク大学推進機構「日橋一昭 講師プロフィール」
https://www.mitaka-univ.org/kouza/C1754000
※東京経済大学在学中の1974年に東京動物園ボランティアーズ第1期生として参加し、1980年に埼玉県こども動物自然公園の開園時スタッフとなった経歴を参照。 ↩︎ ↩︎富士フイルム「日橋一昭 写真展関連プロフィール」
https://www.fujifilm.co.jp/photosalon/sapporo/23033101.html
※日橋が大学時代の東京動物園ボランティアーズ参加をきっかけとして動物園の世界に深く関わるようになったとの経歴紹介を参照。 ↩︎東京ズーネット「東京動物園協会創立60周年記念式典」(2008年12月8日)
https://www.tokyo-zoo.net/topic/topics_detail?kind=news&link_num=10510
※2008年の東京動物園協会創立60周年記念式典における正田陽一の総裁賞受賞、および受賞挨拶で『どうぶつと動物園』の「キリンの模様」に関する記事から協会との関わりを語り始め、上野動物園100周年記念講演会やTZV設立後の活動に触れたことを参照。 ↩︎ ↩︎財団法人東京動物園協会『平成20年度事業報告書』
https://www.tzps.or.jp/pdf_files/report_2008.pdf
※創立60周年記念式典において正田陽一に第3回総裁賞が授与されたことを参照。 ↩︎公益社団法人日本動物園水族館協会「動物園水族館雑誌」
https://www.jaza.jp/publication/magazine
※正田陽一による「『動物園水族館雑誌50巻』を迎えて」、および没後の「元日本動物園水族館協会 顧問 正田陽一氏 追悼」掲載号を参照。 ↩︎正田陽一「『動物園水族館雑誌50巻』を迎えて」『動物園水族館雑誌』50巻1号、2009年
https://www.jaza.jp/assets/document/literatures/2009-50-01.pdf
※正田が編集顧問として、創刊号で古賀忠道が示した「各園館の研究・観察・資料を広く共有する場として雑誌を育てる」という理念を振り返っていることを参照。 ↩︎国立動物園をつくる会「顧問メッセージ/正田陽一」
https://kokuritsudoubutsuen.or.jp/about/message.html
※正田の国立動物園構想および希少種保全に関する見解を参照。 ↩︎国立動物園をつくる会「第1回シンポジウム『動物園は野生動物を救えるか―新たなる動物園への道』」
https://kokuritsudoubutsuen.or.jp/report/symposium1.html
※2012年のシンポジウムにおける正田の開会挨拶、小菅正夫、岩野俊郎らの参加を参照。 ↩︎市民ZOOネットワーク「正田陽一先生 写真」
https://www.zoo-net.org/shoda/photo.html
※2011年7月14日、アクアマリンふくしま再開館前日の訪問写真を参照。 ↩︎