水族館を「完成させなかった」人——安部義孝が五十年かけて広げ続けた「自然」の縮尺

The Man Who Never Finished the Aquarium — Yoshitaka Abe and the Fifty-Year Expansion of "Nature"

著:霧星礼知(min.k)|mncc.info / Author: Reichi Kirihoshi (mncc.info)


1. 「安部義孝」とは何者か

安部義孝は、アクアマリンふくしまの初代館長である。2000年7月の開館から2021年6月まで館長を務め、その後は名誉館長となった[1]。

ただ、この紹介はかなりのものを取りこぼす。

安部の経歴を並べてみると、水族館一筋の人という像はむしろ崩れる。1964年に上野動物園水族館の開館要員として東京都に入り、20代の終わりにはクウェートでアラビア湾の魚類調査に加わり、40代前半には魚とは無関係の多摩動物公園昆虫園の係長になり、その二年後には東京都建設局の計画課で新水族館の計画を担当している。葛西臨海水族園の準備室長を経て開園に関わり、のちに園長。上野動物園長も務め、そして福島でもう一度、新しい水族館を立ち上げた[2][3]。

飼育から始まり、研究、展示、教育、施設計画、行政、組織運営、そして最終的には屋外の自然体験まで。担当領域は一貫して外側へ広がっている。

だからこの記事では、安部義孝を「名館長」として紹介しない。上野・葛西・アクアマリンという世代の異なる三つの水族館に関わりながら、五十年以上にわたって「水族館とは何をする場所なのか」を考え続けた人物として追う。

彼について追いかける問いは四つある。

  • その時々に何を面白いと思ったのか。
  • 何に物足りなさを感じたのか。
  • なぜ次の行動を選んだのか。
  • その経験は、後の仕事の中でどんな形になって戻ってきたのか。

そして最後に、安部義孝にとって水族館とは結局何だったのか、というところへ着地したい。

なお、本記事は公開資料から確認できる範囲で書く。本人が後年語った自己解釈と、その時代に実際に確認できる行動・発言は区別する。資料から確認できない内心は、書かない。


2. 年表

年 所属・役職 出来事
1940 — 東京に生まれる[4]
幼少期〜少年期 — 秩父・米沢などで自然に接する。魚やカエルを自分で捕まえる[5]
1964 東京水産大学増殖学科魚類学教室 卒業 東京都恩賜上野動物園水族館の開館要員として勤務[2:1][4:1]
1968.9〜1969 クウェート科学研究所(KISR) 恩師・黒沼勝造の推薦で赴任。アラビア湾の魚類調査に従事[2:2][6]
1969 上野動物園水族館 復職[2:3]
1969〜1982 上野動物園水族館 館内での役職の変遷は公開資料では未確認。翻訳監修・共著・一般向け発信、およびクウェート関連の仕事が確認できる
1972 同 黒沼勝造との共著 Fishes of Kuwait をKISRから刊行[7]
1974 同 『グレート・バリア・リーフ』監訳。クウェート国立水族館のマスタープラン策定に日本側専門家として参加[8]
1976 同 Project Formulation Study of the Kuwait Aquarium 刊行。水族館計画支援が継続[9]
1983 多摩動物公園昆虫園 係長 専門外の部署へ異動[2:4][10]
1985 東京都建設局計画課 新水族館計画担当[2:5]
1986 同 黒沼勝造との共著 Fishes of the Arabian Gulf をKISRから刊行[11]
1987〜1988頃 葛西臨海水族園 準備室長 展示計画、生物収集の準備[2:6]
1989 葛西臨海水族園 飼育課長補佐 葛西臨海水族園 開園[2:7]
1992または1993 葛西臨海水族園 園長 ※資料により年に差異あり
1995 上野動物園 飼育課長 [2:8]
1997 多摩動物公園 飼育課長 [2:9]
1998 上野動物園 園長 [2:10][10:1]
2000.7 アクアマリンふくしま 初代館長 開館[1:1]
2001 同 「アクアスケープ」を発表。水槽を小宇宙として位置づける[12]
2000年代 同 命の教育、自然体験、環境展示を展開[13]
2007前後 同 蛇の目ビーチなど、館内の「小自然」と本物の自然をつなぐ空間を構想[14]
2010 同 葛西臨海水族園20周年記念講演「サンマからシーラカンスまで」[15]
2011 同 東日本大震災。施設が被災し、復旧を指揮[16]
2012 同 クウェートから復興支援300万ドル[17]
2013 同 「私のアラビアンナイト」を発表。KISR時代を振り返る[6:1]
2014 同 「『ボンサイ』から『オアシス』へ」を発表[18]。「クウェート・ふくしま友好記念日本庭園」完成[17:1][19]
2016 同 震災から5年を振り返る。クウェートとの関係にも言及[16:1]
2021.6 同 館長退任。以後、名誉館長[1:2]

3. 自然の中で育った少年

安部は1940年、東京に生まれた。

後年のインタビューで安部が語る少年時代は、自然を「観察した」という話ではない。秩父や米沢といった土地で、魚やカエルや昆虫を自分の手で捕まえて過ごした話である[5:1]。捕まえる。触る。場合によっては食べる。自然は最初から、身体で扱うものだった。

もうひとつ、後年の仕事を知ってから読むと妙に効いてくる回想がある。寺の水盤に水草や魚を入れて、小さな自然環境をこしらえて遊んだという話だ[5:2]。

これはもう、水族館である。

ただしここで注意しておきたい。「少年期にすでに水族館をつくっていた」という書き方は、後年の職業から遡って少年を説明することになる。安部本人が幼少期の自然体験を自らの教育思想の原点として語っているのは事実だが[20]、それは六十年後の語りであり、当時の水盤遊びに将来の設計思想が宿っていたと断定する根拠にはならない。

確かなことは二つだけだ。ひとつは、安部が自然を「見せてもらう対象」ではなく「入っていく場所」として経験したこと。もうひとつは、その経験を安部自身が繰り返し人生の起点として語ってきたこと。

安部はまた、「自然を教えてくれた人物」との出会いを重視して語っている[21]。少年に自然を手渡す大人がいた、という構図は、後年の安部が子どもたちに対して置こうとした立場とそのまま重なる。この重なりが自覚的なものだったのかは、公開資料からは分からない。


4. 魚を仕事にする——東京水産大学から上野へ

1964年、安部は東京水産大学増殖学科の魚類学教室を卒業し、東京都恩賜上野動物園の水族館開館要員として勤務を始める[2:11][4:2]。

ここで一度、時代の条件を置いておきたい。1964年の日本において、「水族館の職員」は現在ほど輪郭のはっきりした職業ではなかった。飼育技術も展示理論も、体系として完成しているわけではない。魚類学を修めた人間の進路として、大学や研究機関ではなく水族館という現場を選ぶことは、確立したキャリアパスに乗ることではなかった。

この時期の安部を、未来の名館長として書くつもりはない。当時の安部が向き合っていたのは、もっと即物的な問いだったはずだ。魚をどう生かすか。水をどう管理するか。水槽の中に何を再現するのか。

三つ目が、あとで効いてくる。

魚を生かすことと、水槽の中に何かを再現することは、本来は別の課題である。前者は飼育技術の問題で、後者は展示の思想の問題だ。若い飼育職員がこの二つを同時に扱う場所に立っていたことは、経歴上の偶然でもある。だが安部のその後の五十年は、ほぼこの二つ目の問いの拡張として説明できてしまう。


5. クウェート——世界へ出る

1968年9月、安部はクウェート科学研究所(KISR)へ赴任する。本人によれば二十七歳のとき、東京水産大学の恩師・黒沼勝造の推薦による派遣だった[6:2]。

任務はアラビア湾の魚類調査である。調査範囲は、シャッタルアラブ川の河口付近からクウェート沖、カフジ沖、UAE、ホルムズ海峡、オマーン湾にまで及んだ[6:3]。KISRでは田井中勝次らと働き、クウェート大学の海洋生物学教室とも関係を持っている[6:4]。

安部はこの機会について、人とのつながりによって得たものとして語っている[21:1]。朝から晩まで魚を採り続けたという趣旨の回想も残っている。

安部の略歴では、この時期は「1968〜69年、クウェート国立科学研究所」と一行で記される[2:12]。だが資料を追うと、この関係は現地勤務の終了では終わっていない。

帰国後も調査成果の研究は続き、1972年、黒沼勝造との共著『Fishes of Kuwait』がKISRから刊行された[7:1]。1986年には、対象をアラビア湾全体へ広げた『Fishes of the Arabian Gulf』が、同じくKISRから出ている[11:1]。最初の赴任から十八年後である。

そしてその間、1974年。安部はクウェート政府公共事業省が計画していた国立水族館のマスタープラン策定に、日本側専門家として加わっている。海外技術協力事業団(JICAの前身機関)の報告書によれば、1974年2月11日から19日にかけて、東京水産大学の安田富士郎、上野動物園水族館の安部義孝、斎藤商店の矢野浩一の三名がクウェートを訪問した[8:1]。報告書はクウェート国立水族館の概略計画と課題整理を目的としたもので、謝辞にはKISRの田井中勝次、池ノ上宏らの名が記されている[8:2]。計画は一度の視察では終わらず、1976年には事業形成調査の報告書が刊行されている[9:1]。

これは経歴の読み方を変える事実だと思う。

安部が「水族館を計画する側」に回るのは、ふつう1985年の東京都建設局計画課からだと理解される。だが実際には、その十一年前に、外国の国立水族館の概略計画という形で一度経験している。三十代前半、上野動物園水族館の一職員としてである。

もちろん、外部専門家として概略計画に加わることと、自分の組織の施設を予算と工程に乗せることは違う。1974年の経験が1985年以降の仕事を可能にした、と因果で結ぶつもりもない。ここで確認できるのはもっと単純な事実だ。安部は二十代の終わりから三十代にかけて、自分の施設の中だけで完結しない仕事を、続けて経験している。

第4章で、魚を生かすことと水槽の中に何を再現するかは別の課題だと書いた。1974年のクウェートは、後者の側の仕事である。しかも自分の館ではなく、他国の海と他国の来館者を前提にした設計だった。

もうひとつ、安部はこの関係を四十年以上切らなかった。田井中とは四十年以上のちにも旧交をあたためている、と本人が書いている[6:5]。この点は第14章でもう一度出てくる。

日本の一水族館の飼育担当者が、外国の研究機関で現地の海の魚を採集し、その国の水族館の計画書に名を連ねる。この経験を持っている人間と持っていない人間とでは、「水族館の外側」という言葉が指す範囲がそもそも違う。安部にとって水族館の外には、最初から海外の海があった。

クウェートとの関係だけを抜き出すと、こうなる。

年 出来事
1968年9月 27歳でKISRに赴任。アラビア湾魚類調査に従事[6:6]
1968〜69年 KISR研究員としてクウェートで活動。田井中勝次らとの人的関係を形成[6:7]
1972年 黒沼勝造との共著 Fishes of Kuwait をKISRから刊行[7:2]
1974年 クウェート国立水族館マスタープラン策定の日本側専門家3名の一人として再訪[8:3]
1976年 Project Formulation Study of the Kuwait Aquarium がJICAから刊行。水族館計画支援が継続[9:2]
1986年 Fishes of the Arabian Gulf を黒沼勝造と共著、KISRから刊行[11:2]
2011年 東日本大震災でアクアマリンふくしま被災
2012年 クウェートから復興支援300万ドル。安部本人は旧KISR人脈による支援にも言及[17:2]
2014年 「クウェート・ふくしま友好記念日本庭園」完成[19:1]

6. 長い上野時代——資料の薄い十三年

1969年に上野動物園水族館へ復職してから、1983年に多摩動物公園へ移るまで。この十三年間が、安部義孝という人物を追ううえで最も見えにくい。

ただし、前章で見たとおり、空白ではない。1972年にKISRから『Fishes of Kuwait』が出て[7:3]、1974年にはクウェート国立水族館の計画に加わっている[8:4]。同じ1974年に『グレート・バリア・リーフ』の監訳を、1980年に『生きものの観察と飼育』の共著を手がけている。一般向けに自然や魚類について書く仕事も確認できる。1982年時点でも上野動物園水族館に所属している。

1974年という年の並びは、それだけで少し面白い。オーストラリアのサンゴ礁についての本を訳しながら、アラビア湾に建つ予定の水族館の概略計画に加わっている。所属は上野動物園水族館のままである。

この断片からだけでも、活動範囲の広がりは読み取れる。魚を飼う人から、魚について外部へ伝える人、さらに施設の計画に呼ばれる人へ。後年の「命の教育」や普及活動につながる筋も、水族館を設計対象として扱う筋も、すでにここにある。

一方で、組織内部でいつ主任や管理職相当になったのか、どの水槽やどの生物群を担当していたのか、この時期に館内で何を課題と感じていたのかは、公開資料からは確認できない。館の外に出た仕事は残り、館の中の日常は残っていない。

人物伝でいちばん危ういのは、資料が薄い期間に物語を流し込むことだ。1969年から1983年は、安部義孝の人物形成にとって重要であるはずなのに、公開資料からはまだ十分に見えていない期間である——という記述にとどめておく。

『動物園水族館雑誌』や『どうぶつと動物園』の当該年代、上野動物園や葛西臨海水族園の年報、東京都の人事資料などを当たれば、後年の回想ではなく当時の安部自身の問題意識に届く可能性はある[22]。この記事はその手前で止まっている。


7. 魚の人が「昆虫園」へ行く

1983年、安部は多摩動物公園昆虫園の係長になる[2:13][10:2]。

これは人物史として、かなり面白い異動である。魚類学を修め、水族館の現場を二十年近く歩いてきた人間が、専門外の昆虫園の管理職を任される。行政組織の人事としては珍しい話ではないが、当人にとっては専門性の足場が一度外れる出来事だ。

ここでの安部の振る舞いが、この人物のひとつの型を示している。安部は後年、虫の専門家たちの中に入っていったこの時期のことを、自分で網を持って昆虫採集をした経験として、面白そうに語っている[21:2]。

専門外だから距離を置いて管理に徹する、ではない。自分もやってみる。

この行動様式は、後年の安部を理解するうえで見逃せない。安部はのちに、動物園と水族館の境界をそれほど重視しない立場を取るようになり、最終的にはアクアマリンふくしまの展示領域に昆虫や植物や家畜まで含めていく[18:1]。分類の壁が低い人だった、と言ってしまえばそれまでだが、その低さは生まれつきの資質というより、専門外に放り込まれて自分で網を持った経験を経ている、という履歴の問題でもある。

魚の人が虫を採った二年間は、のちに「生態系まるごと」を展示しようとする人の助走として読める。ただしこれは、結果を知っている側からの読み方である。


8. 飼育係から「水族館をつくる人」へ

1985年、安部は東京都建設局計画課で新水族館計画を担当する[2:14]。

ここが転換点だ。飼育の現場職員から、行政の側で施設を企画する立場へ移る。扱う対象が、生き物から計画書と予算と組織に変わる。

ただし、計画に加わること自体は初めてではない。十一年前のクウェート国立水族館がある[8:5]。違うのは立場である。あのときは外国の計画に招かれた専門家の一人だったが、今度は自分の組織の、自分がのちに園長を務めることになる施設を扱う。助言する人から、決める人になっている。

その後、その水族館——葛西臨海水族園の準備室長として展示計画や生物収集の準備にあたり、1989年の開園時には飼育課長補佐となる[2:15]。

葛西臨海水族園については、既存の水族館の何を変えようとしたのかという側から見たい。

いくつか特徴を挙げれば、まず名称である。「水族館」ではなく「水族園」。館ではなく園という語を選ぶこと自体が、建物の中に魚を並べる施設ではないという宣言に近い。

次に展示。マグロの大回遊水槽に代表されるように、種を一点ずつ見せるのではなく、魚が生きている状態そのものを空間として見せる方向が採られた。世界各地からの生物収集も、その延長にある。

そして、ショーを置かなかったこと。安部はのちに、葛西とアクアマリンの両方でイルカショーを置かなかった理由を、動物の生態を見せるという展示方針だけでなく、施設の動線や展示面積の配分といった複数の観点から説明している[23]。

この説明の仕方は、安部という人物を考えるうえで重要だと思う。ショーを置かない選択は、しばしば倫理的な立場の表明として語られる。だが安部は、それを空間設計上の判断としても語る。理念と設計を分けずに語れるのは、飼育の現場と行政の計画課の両方を経てきた人間の言語である。


9. 園長になる——専門家から組織を動かす人へ

1990年代の安部は、完全に管理職の人になる。

葛西臨海水族園長(資料により1992年とも1993年とも記される)、1995年に上野動物園飼育課長、1997年に多摩動物公園飼育課長、そして1998年に上野動物園長[2:16][10:3]。同じ時期、福島県の海洋文化・学習施設の計画にも関わり始める(=のちのアクアマリンふくしま)。

ここで安部は「魚を扱う専門家」ではなく、大きな公共施設と専門家集団を動かす人になっている。

この時期を能力の証明として書くことはできる。だが人物伝としては、むしろ立ち位置を見ておきたい。安部が間に立っていたのは、東京都という巨大行政組織、動物園・水族館という強い専門職集団、建築家、研究者、海外の研究機関——利害も言語も違う集団である。

専門職集団は理念で動き、行政組織は手続きと予算で動く。この二つを翻訳できる人間は、どちらの世界にもそれほど多くない。安部が三つの水族館の立ち上げに関われた理由を、思想の独創性だけに求めるのは、たぶん半分しか見ていない。もう半分は、計画課にいた経験と、園長として組織を回した経験である。

思想を持っている人は珍しくない。思想を予算と工程に乗せられる人が珍しい。


10. もう一度、ゼロから作る——アクアマリンふくしま

2000年7月、アクアマリンふくしまが開館し、安部は初代館長となる[1:3]。

安部はすでに葛西で一度、新しい水族館を作っている。だからアクアマリンを、葛西の福島版として作ることもできたはずだ。しかしそうはならなかった。

アクアマリンの中心に置かれたのは、「福島の海」である。黒潮と親潮がぶつかる潮目。地域の生態系。汎用的な「世界の海」ではなく、その土地の水がどうなっているかを主題にした。しかし、葛西から引き継がれている点もある。ショーを置かず、スター動物に依存しない展示方針だ[23:1]。

開館の翌年、安部は「アクアスケープ」という文章を残している。水槽を単なる飼育容器ではなく、自然を象徴し再構成する小宇宙として捉える内容である[12:1]。

この一文が、葛西との違いを示していると思う。葛西で問われたのは「水槽の中に生態をどう見せるか」だった。アクアマリンで問われているのは「水槽とは何なのか」である。手法の話から、器そのものの定義の話へ移っている。


11. 「かわいい」で終わらせない——命の教育

アクアマリンふくしまで安部が展開した教育の考え方は、水族館としてはかなり踏み込んだものだった。

生き物を捕まえること。食べること。食べられること。死ぬこと。これらを含めて子どもが知る必要がある、という立場である[13:1]。館内で釣りをし、釣った魚を食べる体験も置かれた。

ここには当然、反発もありうる。生き物を見せる施設が、生き物を殺して食べる体験を提供することへの違和感は、理屈として成立する。

ただ、安部の側の筋は一貫している。自然を「かわいい生き物を見る場所」に限定すると、人間が自然の外側の観客になる。食べることを外すと、人間は食物連鎖の中にいる存在ではなくなる。安部が置こうとしたのは、観客席ではなく、連鎖の内側の席だった。

第3章で見た少年時代——捕まえて、触って、食べていた自然——と、この教育方針はきれいに重なる。安部自身も、幼少期の自然体験を教育思想の文脈で語っている[20:1]。


12. 水槽から外へ——蛇の目ビーチと「中自然」

安部の仕事で最も面白いのは、ここから先だ。

水槽の中に生態系を再現することを追究した結果、安部は逆方向の結論に行き着く。水槽だけでは自然を伝えきれない。

そこで作られたのが、館内と本物の自然の間をつなぐ中間段階である。安部は2007年前後の文章で、館内の「小自然」と実際の自然との間を結ぶ場として、蛇の目ビーチのような体験空間を位置づけている[14:1]。

著者(霧星礼知)が仮に「縮尺の階段」と呼んでいる構造がある。安部が作ったのは、まさにこれだった。

水槽という小自然。屋外のビオトープ。裸足で入れる蛇の目ビーチという中自然。そしてその先にある本物の海と森。段階を踏んで、体験の縮尺が少しずつ上がっていく。

この階段には、水族館という業態にとって不都合な性質がある。最上段が、自分の施設の外にあるのだ。

普通、施設は来館者を内側に留めようとする。展示を充実させ、滞在時間を延ばし、また来てもらう。だが安部の階段は、最終的に来館者を海と森へ送り出す構造になっている。館の役割は、目的地ではなく入口になる。

水族館を極めた人が、水族館の建物そのものから外へ出ようとする。この記事の中で、ここが最大の転換点だと思う。


13. 「Microcosm / Sustainability / Non-Charisma」

2010年代に入り、安部は自分の水族館観を三つの語で整理していく。

Microcosm(小宇宙)。 生き物を一種ずつ並べるのではなく、生態系そのものを小さな宇宙として展示する。2001年の「アクアスケープ」から一貫している線である[12:2]。

Sustainability(持続可能性)。 海と漁業資源を、消費される対象としてではなく、持続可能性の観点から扱う。水族館を、水産資源について考える場所として位置づける発想でもある。

Non-Charisma(非カリスマ)。 大型・希少・人気の動物に頼らない。身近な普通種や目立たない生物も、生態系の一員として扱う。

三つ目が最も難しい。集客の観点からすれば、カリスマ動物は最も効率のよい資産である。それに頼らないという方針は、経営上の負荷を自分で背負う選択になる。

象徴的なのは、2010年に葛西臨海水族園の20周年記念講演で安部が話したときの演題である。「サンマからシーラカンスまで——アクアマリンふくしまが目指すもの」[15:1]。

シーラカンスは、水族館業界において最上級のカリスマである。サンマは、日本人の食卓にいる、ごく普通の魚だ。その二つを並べて演題にしていること自体に、安部の立場が出ている——というのは、あくまで筆者の読み方である。ただ、Non-Charismaという語をカタログの装飾として使う人なら、演題の冒頭にサンマは置かないだろうとは思う。

この三語は、思いつきのキャッチコピーではないと思う。上野で魚を飼い、葛西で生態展示を作り、アクアマリンで教育と屋外体験を広げた四十年分の実践を、後から言語化したものとして読むのが妥当だろう。


14. 震災——壊れた水族館をどうするか

2011年3月、東日本大震災。アクアマリンふくしまも甚大な被害を受けた。

思想を語ってきた人が、実際に施設を壊され、生き物を失い、地域そのものが被災したときに何をしたか。人物伝としては、ここを避けられない。

安部は復旧と復興を指揮した。そしてこの過程で、四十年以上前に赴任したクウェートとの縁が、支援という形で再び現れる。

クウェートは、アクアマリンふくしまの復興のために300万ドルを拠出している。安部は2014年の文章で、これについて、1968〜69年に所属したKISRの同窓会長モハマッド・アルアッタール博士をはじめとする、当時からの友人たちの支援があってのことだったと記している[17:3]。英語圏の記録も、1960年代後半のKISR時代の友人たちがアクアマリンふくしまの復旧を助けたと伝えている[19:2]。

ここは慎重に書きたい。300万ドルという規模の支援は国家レベルの決定であり、安部個人の人脈だけが理由だったと断定することはできない。資料から言えるのは、1968年に作られた人的関係が四十年以上あとの復興の局面で実際に機能したこと、そしてそれを本人が明記していることである。

2014年には、この支援を記念して「クウェート・ふくしま友好記念日本庭園」がアクアマリンふくしまに完成した。完成式典には安部、クウェート駐日大使、福島県知事、KISR所長らが出席している[19:3]。

若い日に世界へ出た経験が、四十年後に施設を助ける形で戻ってくる。物語としてはよくできすぎているからこそ、感動話として畳まないほうがいい。

第5章で並べた事実を思い出したい。現地勤務、共著の出版、国立水族館の計画、続く事業形成調査、そして旧交。この関係は「若いころ海外にいた」という一点ではなく、二十年以上にわたる往復として積まれている。安部が長く維持してきた海外機関との関係は、平時の共同研究や生物収集だけでなく、非常時にも機能した[23:2]。人脈を「持っていた」ことより、四十年にわたって切らなかったことのほうが、たぶん重要だ。

安部自身も、震災から5年を振り返る文章の中で、この関係と、その後の屋外自然体験空間の拡張について記している[16:2]。

そして注目すべきは、復旧後の方向である。

安部は元に戻すだけでなく、屋外の自然体験空間をさらに広げていった。震災は、水槽の外へ出ていくという流れを止めなかった。


15. 水族館から「オアシス」へ

2014年、安部は「『ボンサイ』から『オアシス』へ」という文章を発表する[18:2]。

盆栽は、自然を小さく切り取って器に収めたものだ。よくできた水族館は、この意味で盆栽に近い。器の中に自然の縮図を作り、外から鑑賞する。

オアシスは違う。人と生き物が水のまわりに集まり、そこで暮らす場所である。鑑賞されるのではなく、使われる。

安部が晩年に構想したのは、森、川、海、植物、昆虫、家畜、そして人間の生活までを含む空間だった。もはや水族館という語の輪郭を超えている。

だが、この記事をここまで追ってきた読者には、これは唐突には見えないはずだ。

少年が、寺の水盤に小さな自然を作った。青年が、水槽の中に魚を生かす方法を覚えた。中年で、水槽の中に生態を再現しようとした。それでも足りず、ビオトープを作った。それでも足りず、浜辺を作った。それでも足りず、館の外の海と森へ人を送り出した。最後に、水族館そのものを、人間と自然の関係を体験する場所へ変えようとした。

同じ動作が、五十年かけて縮尺だけを上げ続けている。


16. 終章——安部義孝は何を作ろうとしていたのか

安部のことを「日本を代表する水族館長だった」で終わらせると、この人の輪郭は出てこない。

安部の仕事を通しで追うと、水族館を作ることそのものが目的だったようには見えない。一貫して考え続けていたのは、たぶんこちらの問いだ。

都市生活の中で、人間と自然をどうもう一度つなぐか。

水族館は、その問いに対する当時最良の答えだった。だが答えとしては常に不完全で、だから安部は器を広げ続けた。水槽から生態展示へ、生態展示からビオトープへ、ビオトープから浜辺へ、浜辺から森と人間生活へ。

その意味で安部義孝は、水族館を完成させた人というより、水族館という形式に最後まで満足しなかった人だったのではないか。

自分の仕事にも、たぶん「水槽」がある。担当範囲、職種の定義、業界の作法。それは仕事をするために必要な器で、器がなければ何も飼えない。問題は、器の中を完璧にすることと、本来やりたかったことが達成されることは、別だという点にある。

安部義孝は、器の中を極めた人だった。極めた結果、器の外に出た。


☕️よかったらコーヒー一杯。 https://buymeacoffee.com/mink_obs

著:霧星礼知(min.k) / リサーチ・構造支援:Claude Sonnet 4.6、ChatGPT / AI-assisted / Structure observation


For international readers

Yoshitaka Abe (b. 1940) is usually introduced as the founding director of Aquamarine Fukushima. That description undersells him. Trained in ichthyology, he joined Tokyo's Ueno Zoo aquarium in 1964, surveyed fish in the Arabian Gulf from Kuwait in the late 1960s, was transferred to run an insect house in 1983 despite having no entomological background, moved into the metropolitan government's planning division in 1985, helped build Tokyo Sea Life Park, later directed Ueno Zoo, and then built a second new aquarium in Fukushima in 2000.

This article traces that career as an intellectual biography rather than a hagiography, distinguishing throughout between what Abe later said about himself and what contemporary records actually show — and leaving the thinly documented 1969–1983 period explicitly open rather than filling it with narrative.

One thread deserves separate mention. Abe's résumé records his Kuwait years in a single line. The paper trail behind that line runs much longer: Fishes of Kuwait, co-authored with his mentor Katsuzo Kuronuma and published by the Kuwait Institute for Scientific Research in 1972; participation as one of three Japanese experts in the master planning of a Kuwait national aquarium in 1974, followed by a project formulation study in 1976; Fishes of the Arabian Gulf from the same institute in 1986; and, after the 2011 tsunami, a three-million-dollar Kuwaiti contribution toward Aquamarine Fukushima's recovery, which Abe himself attributed in part to friends from his KISR days. A state-level funding decision cannot be reduced to one man's network. What the record does show is that a relationship formed in 1968 was still active forty years later — and that Abe first worked on the planning side of an aquarium not in Tokyo in 1985, but in Kuwait in 1974.

The through-line is what I call a "staircase of scale." Abe kept enlarging the container: from tanks that keep fish alive, to tanks that reproduce ecosystems, to outdoor biotopes, to a wadeable beach inside the grounds, and finally to a vision of the aquarium as an "oasis" including forests, rivers, insects, livestock and human life. His late vocabulary — Microcosm, Sustainability, Non-Charisma — reads less as branding than as the delayed articulation of forty years of practice. Notably, the top step of his staircase lies outside his own facility: the museum becomes an entrance to real nature rather than a destination.

The closing argument is mine, not his: Abe is better understood not as the man who perfected the aquarium, but as the man who was never satisfied with the aquarium as a form.

Keywords

Yoshitaka Abe, Aquamarine Fukushima, Tokyo Sea Life Park, Ueno Zoo aquarium, aquarium history, Japan, exhibit design, environmental exhibition, ecosystem display, Non-Charisma, microcosm, sustainability, life education, biotope, 2011 Tohoku earthquake, museum philosophy, intellectual biography, Kuwait Institute for Scientific Research, Arabian Gulf, Fishes of Kuwait, Kuwait National Aquarium, Katsuzo Kuronuma, Kuwait-Fukushima friendship garden

安部義孝、アクアマリンふくしま、葛西臨海水族園、上野動物園水族館、多摩動物公園昆虫園、水族館史、環境展示、生態展示、蛇の目ビーチ、命の教育、非カリスマ、小宇宙、持続可能性、東日本大震災、オアシス構想、人物伝、東京水産大学、クウェート科学研究所、アラビア湾、黒沼勝造、クウェート国立水族館計画、クウェート・ふくしま友好記念日本庭園


脚注


  1. アクアマリンふくしま「館長からのメッセージ」一覧。https://www.aquamarine.or.jp/curator-message/ (2026年8月17日閲覧)。「アクアマリンふくしま初代館長 安部義孝(2000.7〜2021.6)」と記載されている。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  2. 安部義孝・講演者略歴資料。東京水産大学増殖学科魚類学教室卒業、上野動物園水族館開館要員、クウェート国立科学研究所、多摩動物公園昆虫園係長、東京都建設局計画課新水族館計画担当、葛西臨海水族園準備室長・園長、上野動物園長などの役職と年代を記載。経歴年表は出版社プロフィールよりこちらを優先して照合した。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  3. 安部義孝『水族館をつくる——うおのぞきから環境展示へ』成山堂書店。上野動物園水族館、葛西臨海水族園、アクアマリンふくしまにおける経験と水族館観を本人が振り返った著作。 ↩︎

  4. oyamana「安部義孝さんインタビュー 『アクアマリンふくしま』の役割」。https://oyamana.com/interview/abeyoshitaka01/abeyoshitaka05/ (2026年8月17日閲覧)。1940年生まれ、1964年東京水産大学卒業、クウェート勤務などの略歴が掲載されている。 ↩︎ ↩︎ ↩︎

  5. oyamana「安部義孝さんインタビュー 豊かな自然が教えてくれたこと」。https://oyamana.com/interview/abeyoshitaka01/abeyoshitaka03/ (2026年8月17日閲覧)。幼少期の自然体験、魚や生き物との接触についての回想。 ↩︎ ↩︎ ↩︎

  6. 安部義孝「私のアラビアンナイト」『館長からのメッセージ』第58号、アクアマリンふくしま、2013年1月1日。https://www.aquamarine.or.jp/curator-message/no58/ (2026年8月17日閲覧)。1968年9月に二十七歳でクウェート科学研究所(KISR)へ赴任した経緯(東京水産大学の恩師・黒沼勝造の推薦)、シャッタルアラブ川河口からクウェート、カフジ沖、UAE、ホルムズ海峡、オマーン湾に及ぶ調査範囲、KISRの田井中勝次らとの関係およびクウェート大学海洋生物学教室とのつながり、1972年・1986年の著作、四十年以上後も旧交が続いていることを本人が記述。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  7. Katsuzo Kuronuma and Yoshitaka Abe, Fishes of Kuwait, Kuwait Institute for Scientific Research, 1972. 書誌はCiNii Books(https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA23803970 、2026年8月17日閲覧)で確認。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  8. Fujio Yasuda, Yoshitaka Abe, Koichi Yano, Guide to the Planning of Kuwait Aquarium, 海外技術協力事業団、1974年。https://openjicareport.jica.go.jp/pdf/10443356.pdf (2026年8月17日閲覧)。1974年2月11〜19日のクウェート訪問、日本側専門家3名の構成、クウェート国立水族館の概略計画と課題整理という目的、KISRの田井中勝次・池ノ上宏らへの謝辞が記載されている。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  9. Japan International Cooperation Agency, Project Formulation Study of the Kuwait Aquarium, 1976. https://openjicareport.jica.go.jp/590/590_308.html (2026年8月17日閲覧)。1974年のマスタープラン以降も、日本側による水族館計画支援が事業形成調査の段階まで継続していたことを示す。 ↩︎ ↩︎ ↩︎

  10. 新日本出版社「安部義孝」著者紹介。東京水産大学卒業、上野動物園水族館、多摩動物公園昆虫園、葛西臨海水族園、上野動物園、アクアマリンふくしまなどの主要経歴の確認に使用。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  11. Katsuzo Kuronuma and Yoshitaka Abe, Fishes of the Arabian Gulf, Kuwait Institute for Scientific Research, 1986. 書誌はCiNii Books(https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA01474605 、2026年8月17日閲覧)で確認。著者情報はCiNii Books「安部, 義孝」(https://ci.nii.ac.jp/author/DA01977078 )も参照。 ↩︎ ↩︎ ↩︎

  12. 安部義孝「アクアスケープ」『館長からのメッセージ』第2号、アクアマリンふくしま、2001年9月11日。https://www.aquamarine.or.jp/curator-message/no2/ (2026年8月17日閲覧)。水槽を単なる飼育容器ではなく、自然を象徴・再構成する「小宇宙」として捉える初期の文章。 ↩︎ ↩︎ ↩︎

  13. 安部義孝「館長からのメッセージ」第12号、アクアマリンふくしま。https://www.aquamarine.or.jp/curator-message/no12/ (2026年8月17日閲覧)。「命の教育」、自然体験、食物連鎖などの教育思想。 ↩︎ ↩︎

  14. 安部義孝「館長からのメッセージ」第26号、アクアマリンふくしま。https://www.aquamarine.or.jp/curator-message/no26/ (2026年8月17日閲覧)。館内の「小自然」と実際の自然との間をつなぐ場として、蛇の目ビーチなどの体験空間を位置づけた文章。 ↩︎ ↩︎

  15. 東京動物園協会「20周年記念連続講演会『水族園セミナー』第5回・第6回の参加者募集」2010年1月15日。https://www.tokyo-zoo.net/topics/events/kasai/3275_13655_2010-01-15.html (2026年8月17日閲覧)。安部義孝による講演「サンマからシーラカンスまで——アクアマリンふくしまが目指すもの」の告知。シリーズ全体のテーマは「水族館の過去と未来」。関連して、東京動物園協会「20周年記念連続講演会『水族園セミナー』開催!」2009年10月2日(https://www.tokyo-zoo.net/topic/topics_detail?inst=kasai&kind=event&link_num=12652 )、および同「第3回」2009年11月13日(https://www.tokyo-zoo.net/topics/events/kasai/3322_12930_2009-11-13.html )。いずれも2026年8月17日閲覧。各館長が自ら目指してきたもの、達成したこと、将来像を語る企画であったことが確認できる。 ↩︎ ↩︎

  16. 安部義孝「動物園と水族館のありかた4——災害から5年をふりかえりつつ」『館長からのメッセージ』第73号、アクアマリンふくしま、2016年11月1日。https://www.aquamarine.or.jp/curator-message/no73/ (2026年8月17日閲覧)。東日本大震災後の復興、クウェートとの関係、屋外自然体験空間の拡張について。 ↩︎ ↩︎ ↩︎

  17. 安部義孝「クウェート・ふくしま友好記念日本庭園について」『館長からのメッセージ』第64号、アクアマリンふくしま、2014年2月23日。https://www.aquamarine.or.jp/curator-message/no64/ (2026年8月17日閲覧)。クウェートからの300万ドルの復興支援について、1968〜69年に所属したKISRの同窓会長モハマッド・アルアッタール博士をはじめとする友人たちの支援があってのことだったと本人が記述。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  18. 安部義孝「『ボンサイ』から『オアシス』へ」『館長からのメッセージ』第63号、アクアマリンふくしま、2014年1月17日。https://www.aquamarine.or.jp/curator-message/no63/ (2026年8月17日閲覧)。小宇宙、里山、人間生活を含む後期の展示思想。 ↩︎ ↩︎ ↩︎

  19. Salaam Association, "Memorial Garden testifies to the ties of friendship between Kuwait and Japan," 2014. https://g-salaam.com/en/?page_id=745 (2026年8月17日閲覧)。1960年代後半のKISR時代の友人たちとアクアマリンふくしまの復旧・復興との関係、および「クウェート・ふくしま友好記念日本庭園」完成式典の出席者について記す英語資料。 ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  20. 安部義孝「館長からのメッセージ」第28号、アクアマリンふくしま。https://www.aquamarine.or.jp/curator-message/no28/ (2026年8月17日閲覧)。幼少期の自然体験と「命の教育」との関係を考えるための本人資料。 ↩︎ ↩︎

  21. oyamana「安部義孝さんインタビュー 出会いと人生」。https://oyamana.com/interview/abeyoshitaka01/abeyoshitaka04/ (2026年8月17日閲覧)。東京水産大学、上野動物園水族館、クウェート、多摩動物公園などの経験と「人との出会い」についての回想。全体像はoyamana「安部義孝さんインタビュー 子どもの成長過程に必要なのは 自然を知ること、良い人と出会うこと」2016年(https://oyamana.com/interview/abeyoshitaka01/ 、2026年8月17日閲覧)を参照。 ↩︎ ↩︎ ↩︎

  22. 未確認の一次資料として、『動物園水族館雑誌』1960〜1980年代掲載の安部義孝名義論文・記事、同誌第41巻第3号所収「著者索引(第1巻〜第40巻、1959〜1999)」、東京動物園協会『どうぶつと動物園』1960〜1980年代、上野動物園・葛西臨海水族園の年報および開園史、東京都職員録・東京都建設局人事資料、葛西臨海水族園の建設・開園時の計画書および展示計画資料、安部義孝による1970〜80年代の一般向け寄稿・監訳書・共著書がある。これらを確認できれば、1969〜1983年について後年の回想ではなく当時の問題意識を追える可能性がある。 ↩︎

  23. 瀬戸内千代「『ショーがない』水族館、芸ではなく生態を見せる」『オルタナ』2020年1月22日。https://www.alterna.co.jp/29376/ (2026年8月17日閲覧)。イルカショーを置かなかった理由について、生態展示、施設動線、展示面積など複数の観点から本人が説明している。海外研究機関との連携については、安部義孝「館長からのメッセージ」第39号、アクアマリンふくしま(https://www.aquamarine.or.jp/curator-message/no39/ 、2026年8月17日閲覧)も参照。 ↩︎ ↩︎ ↩︎