研究室から飛び出した育種学者——近藤典生と「自然動植物公園」という発想

The Man Who Built Environments, Not Cages — Norio Kondo and the Idea of the "Natural Flora and Fauna Park"

著:霧星礼知(min.k)|mncc.info / Author: Reichi Kirihoshi (mncc.info)

近藤典生(こんどう・のりお、1915–1997)は、肩書きだけなら遺伝・育種学者、東京農業大学教授、進化生物学研究所の創設者である。しかし実際の仕事を追うと、育種学・自然史・探検・動植物の飼育・博物館展示・動物園設計を一つの思想の中で扱った人物と見るのが適切である。

特に動物園史の文脈では重要な人物であり、現在の長崎バイオパークや伊豆シャボテン動物公園につながる「自然動植物公園」という考え方を、日本でかなり早い時期から実践した人物である。東京農業大学側も、彼を「動物園に景観と共生の概念を導入したパイオニア」と位置づけている[1]。

1. 生い立ちと研究者としての出発

近藤は1915年4月28日、三重県松阪に生まれた。旧制津中学校から東京農業大学予科を経て同大学農学部へ進み、卒業後の1939年から京都大学農学部副手となり、木原均の木原生物学研究所で研究した。のちに東京農業大学へ戻り、1950年に東京農業大学育種学研究所を創設した。これは現在の進化生物学研究所の前身である[2]。

ここで重要なのが木原均との関係である。木原は染色体研究・遺伝学・植物育種で世界的に知られた研究者であり、近藤はその研究環境の中で研究者として形成された。そのため近藤の出発点は、決して「動物園好きのナチュラリスト」ではなく、かなり正統的な遺伝学・育種学であった。

育種学研究所では、タネナシスイカや突然変異による無翼ニワトリなど、遺伝・育種にかかわる研究を行った[2:1]。

ただし近藤は、専門分野の中に閉じこもるタイプではなかった。

幼少期から昆虫やサボテンなどを集め、生物を「研究材料」であると同時に、生きたものとして飼い、育て、観察する対象と考えていた。この姿勢が、のちの進化生物学研究所、さらには動植物園設計にそのままつながっていくのである。

2. 「研究対象は自分で集め、自分で育てる」

近藤の研究観を象徴する考え方がある。

現在の進化生物学研究所は、創設時の理念について、研究者は自身の研究材料を自ら収集、維持、管理しながら研究を進めるべきである、という近藤の考えを明記している。さらに、研究所を定年を設けない「生涯研究の場」 として構想したとも説明している[3]。

これは近藤の思想を理解するうえで非常に重要である。

近藤にとって研究は、

標本を受け取る → 実験する → 論文を書く

だけではなかった。

現地へ行く
→ 生物を見る
→ 採集する
→ 持ち帰る
→ 飼育・栽培する
→ 世代を追う
→ 比較する
→ 研究する
→ 人に見せる

までが一続きなのである。

だから進化生物学研究所には、植物、昆虫、魚類、鳥類、哺乳類、化石など、とんでもなく異質な資料が集まっていった。

現在も昆虫標本約50万点、魚類液浸標本約3万点、化石約1500点のほか、レムール類、古代型魚類、無翼鶏、バオバブや多肉植物などの生体が維持されている[3:1]。

つまり近藤は、研究室と博物館と動物園と植物園を、本来それほど分けて考えていないのである。

ここがこの人物を理解する鍵である。

3. 1960年代から世界へ出ていく

近藤は研究室だけでなく、猛烈にフィールドへ出た。

1961年には東京農業大学創立70周年記念のアフリカ縦断動植物学術調査を行い、ケープタウンからカイロまで自動車で縦断した。進化生物学研究所によれば、日本人による自動車でのアフリカ縦断として初の成功であった[4]。

1964年には第一次マダガスカル動植物学術調査を実施した。

そしてマダガスカルとの関係は一時的な調査では終わらなかった。

レムール類、バオバブ、ディディエレア科植物などを研究し、日本社会にマダガスカルの自然を紹介する役割を果たした。1970年大阪万博と1990年国際花と緑の博覧会では、マダガスカル共和国の政府代表代理まで務めている[2:2]。

1996年にはマダガスカル共和国からグランクロワ勲章を受章した[2:3]。

要するに近藤は、

「珍しい動植物を探しに行った研究者」

というレベルを超えて、

日本とマダガスカルを結ぶ自然史研究者

になったのである。

4. 南米でマナティーを捕まえてくる

近藤の人物像を象徴するエピソードがマナティーである。

東京農業大学の博物館展示論資料によれば、近藤は1969年に南米でマナティーを生け捕りにし、日本へ導入した。よみうりランドなどで飼育され、日本におけるマナティー飼育の先駆となった[5]。

カピバラについても同様で、伊豆シャボテン公園や長崎バイオパークで飼育された系統は、近藤が導入した個体につながるとされる[5:1]。

今われわれが、

「カピバラが温泉に入っている」

とか、

「動物園でワオキツネザルが近くを歩いている」

という光景を珍しく感じないのは、かなり後世の話である。

近藤は1960年代から70年代に、その原型を作っているのである。

5. 伊豆シャボテン公園——研究者が「公園」を作り始める

近藤のもう一つの大きな仕事が、動植物園の設計である。

最初の大きな実践が、1959年開園の**伊豆シャボテン公園(現・伊豆シャボテン動物公園)**であった。

同園自身が、

設計・創案者 東京農業大学名誉教授 近藤典生博士

と明記している[6]。

しかも近藤自身によれば、東京農業大学に戻り育種学研究所を作った頃からすでに、伊豆方面にサボテンを主体とした自然植物園を作る構想を持っていた。単なる温室ではなく、植物をなるべく露地で育て、風景として成立させる植物園を考えていたのである[7]。

ここから徐々に、

植物園
+動物園
+自然史博物館
+景観

を融合させる発想へ進んでいった。

6. 「自然動植物公園」という発想

近藤が目指した施設は、通常の「動物園」と少し違う。

東京農業大学の資料では、近藤は

「もうひとつの世界」

を作ろうとしていたと説明される。

動物園と植物園を融合し、人と動物が同じ環境の中に入り込む施設であり、近藤自身はこうしたものを 「バイオパーク」 と呼ぶことを好んだという[5:2]。

この思想が最もよく形になったのが、

  • 伊豆シャボテン公園
  • 長崎鼻パーキングガーデン
  • 長崎バイオパーク
  • 名護自然動植物公園(現ネオパークオキナワ)

などである。

中でも長崎バイオパークは、現在も近藤を「監修」として公式に記載している[8]。

7. 「檻をなくす」の意味

近藤の思想を単純化すると、

「檻のない動物園を作った人」

と言われやすい。

しかし、実際にはもう少し深い。

長崎バイオパーク側の説明によれば、近藤が目指したのは、

動物を人工的な柵で閉じ込めるのではなく、動物自身がそこに居つきたくなる環境をつくること

であったという[9]。

つまり、

柵を目立たなくする

のではない。

発想の順序が逆なのである。

普通の動物園は、

逃げないように囲う → その中に環境を作る

という順序になる。

一方の近藤型では、

動物が生活できる環境を作る → その結果そこに動物がいる

という順序になる。

これは現在でいえば、環境エンリッチメントやランドスケープ・イマージョンに近い考え方だが、近藤はかなり早い時期からそれを実践していた。

8. 人間は「見る側」だけではない

さらに面白いのが、人間と動物の関係である。

長崎バイオパークのスタッフは、近藤の思想について、

「ヒトが動物を見ると同時に、動物たちからも見られている」

という考え方だったと記している[9:1]。

これはかなり近藤らしい発想である。

近代動物園では、

観察主体=人間
観察対象=動物

となる。

近藤はこの関係を崩してしまう。

人間も動物の環境に入る。

したがって、

人が動物を見る/動物が人を見る

という双方向の関係になる。

だから長崎バイオパークやネオパークオキナワでは、来園者の横を鳥や小型哺乳類が普通に歩いていたりする。

これは単なる「ふれあい動物園」とは少し違う。

人間も生態系の中の一要素にする

という発想なのである。

9. 地形を消さない

近藤の設計思想でもう一つ重要なのが、

その土地を利用する

ことである。

長崎バイオパークの土地を見た近藤は、大木がほとんど育っていないことから表土の下に岩盤があると推測した。

実際に掘ると岩盤が出てきた。

そこで、

「普通の森林型動物園を作ろう」

とは考えず、

この岩場ならアンデスなど中南米の環境を再現できる

と考えた[10]。

これは非常に象徴的である。

土地を造成して設計図に合わせるのではなく、

設計を土地に合わせる。

近藤の「共生」はここにも現れている。

10. 植物も昆虫も「背景」ではない

ここは近藤型動物園を理解するうえでかなり重要である。

普通の動物園では植物は、

「展示を自然っぽく見せる背景」

になりやすい。

しかし近藤にとっては違った。

長崎バイオパークの現在の理念にも、

植物
→昆虫
→鳥や動物
→糞・死骸
→微生物
→植物

という循環が明示されている[8:1]。

つまり、

動物だけを切り出して展示しても、生物を理解したことにならない。

ということである。

近藤の自然動植物公園では、

動物
植物
地形
水
土
微生物
人間

を可能な限り一つのシステムとして扱う。

だから「動物園」というより、

人工的に構成された生態系

に近いのである。

11. 近藤の「環境共生」は、現代的な自然保護とは少し違う

ここは注意が必要である。

現在「環境共生」という言葉を聞くと、

「野生動物を人間から守る」

という保全思想を想像しやすい。

近藤は少し違う。

東京農業大学の展示では、近藤について、

生き物を資源として見る視線も持ち合わせていた

と明記している[1:1]。

これは彼が農学者だからである。

自然=触れてはいけないもの

ではない。

自然とは、

人間が利用しながら、維持し、循環させていくもの

なのである。

だから近藤は、

飼育する
栽培する
育種する
移動させる
展示する
利用する

こと自体を否定しない。

むしろ、

どうすれば人間と生物が長期的に共存できるか

を考える。

この意味では、現代の純粋な野生生物保護思想というより、かなり農学的な環境思想である。

12. エネルギーを投入しすぎない

近藤の共生思想には、もう一つ現代的な部分がある。

東京農業大学は、

飼育には水やエネルギーの投入量を減らし、現状の地形を生かす

ことも近藤の思想の特徴として挙げている[1:2]。

要するに、

巨大な設備を作って
大量のエネルギーを投入して
自然環境を模倣する

のではない。

土地の気候や地形を読み、

そこで成立する生態系を作る。

かなり現在のサステナブルデザインに近い考え方である。

13. そして「研究を社会に見せる」

近藤は研究成果を研究者だけのものにしなかった。

百貨店での展示会を130回以上開催し、テレビ・ラジオに出演し、少年少女向け雑誌の記事を多数執筆・監修した[2:4]。

進化生物学研究所の研究者によれば、近藤には、

「お客さんのいるところに出て行こう」

という考えがあったという[11]。

つまり、

「研究成果を知りたければ大学へ来なさい」

ではない。

研究者の側から社会へ出ていく。

これは現在のアウトリーチそのものである。

近藤にとって動物園や植物園も、研究の「余興」ではなかった。

研究成果を社会へ返す装置だったと考えた方が分かりやすい。

14. 1974年、進化生物学研究所へ

1950年に設立した東京農業大学育種学研究所を母体として、1974年に文部省認可の財団法人進化生物学研究所が設立された。

近藤典生が理事長、かつての師である木原均が所長となった[4:1]。

そして研究分野も、

育種学

から、

進化・自然史全般

へと広がっていった。

これは近藤自身の研究人生そのものに見える。

若い頃の遺伝学・育種学から出発し、

フィールド調査
↓
動物・植物・昆虫・化石
↓
動植物園
↓
生態系
↓
人間と自然の関係

というふうに、対象がどんどん広がっていったのである。

15. 晩年には「生態系的生物生産」を唱える

1986年の『進化生物学研究所研究報告』近藤典生定年退職記念号には、近藤自身の

「21世紀にそなえての農業における発想の転換——生態系的生物生産の考え方」

という論考が掲載されている[12]。

タイトルだけでも、晩年の関心がかなりよく分かる。

単一作物を大量生産するような農業ではなく、

生態系そのものを一つの生産システムとして考える

方向へ向かっている。

つまり近藤にとって、

育種
農業
動物園
植物園
自然保護

は別々のテーマではない。

全部、

人間が生物世界とどう付き合うか

という一つの問題だったのである。

16. 近藤典生の思想を一言でまとめるなら

近藤を、

「生物を個体ではなく、関係の中で見る人」

と捉えると、かなり理解しやすい。

彼の仕事には一貫して、以下の思想がある。

① 実物主義

生き物は実際に見て、触れ、育てる。

② フィールド主義

研究材料は自分で現地へ行って探す。

③ 生態系主義

一種だけを見るのではなく、植物・動物・地形・気候をセットで見る。

④ 人間も生態系の一部

「人間が自然を見る」という一方向の関係にしない。

⑤ 利用と保全を対立させない

生物を利用することを否定するのではなく、持続的な利用を考える。

⑥ 研究成果を社会へ返す

論文だけでなく、動物園・植物園・展示会・雑誌・テレビまで使う。

これらがすべてつながっているのである。

17. 動物園史の中で見る近藤典生

近藤を単に、

「伊豆シャボテン公園を作った農大教授」

として扱うと、かなり小さく見えてしまう。

むしろ、

戦後日本において「動物を檻に並べる動物園」から、「環境そのものを展示する動物園」へ移行する一つの系譜を作った人物

と考えた方がよい。

そしてその系譜が、

近藤典生
→ 長崎バイオパーク
→ ネオパークオキナワ

などへ続いていく。

ここに、近藤の影響を受けた園長・飼育者まで重ねていくと、かなり面白い人脈図が出てくるはずである。

特に沖縄こどもの国の高田勝との関係は、さらに掘る価値がある。近藤本人の思想だけでなく、

近藤典生の「自然動植物公園」思想が、誰を経由して1980~90年代の日本の動物園人へ伝わったのか

を追うと、戦後日本の動物園史における別のネットワークが見えてくる可能性がある。


☕️よかったらコーヒー一杯。 https://buymeacoffee.com/mink_obs

著:霧星礼知(min.k) / リサーチ・構造支援:Claude Sonnet 4.6、ChatGPT / AI-assisted / Structure observation


For international readers

Norio Kondo (1915–1997) was a Japanese geneticist and plant breeder at Tokyo University of Agriculture, but his real significance lies elsewhere. Trained under the geneticist Hitoshi Kihara, he founded a breeding research institute in 1950 that later became the Research Institute of Evolutionary Biology, and he insisted that researchers should collect, keep and raise their own study organisms rather than simply receive specimens. That principle pushed him out of the laboratory: he crossed Africa by car in 1961, led botanical and zoological surveys in Madagascar from 1964, brought manatees and capybaras to Japan, and eventually began designing parks himself.

The result was what he called a "biopark" — a fusion of zoo, botanical garden and natural history museum. Izu Shaboten Park (1959), Nagasaki Bio Park and Neo Park Okinawa all descend from this idea. His design logic inverted the conventional zoo: instead of enclosing animals and then furnishing the enclosure, he built an environment animals would choose to stay in, kept the existing terrain rather than flattening it, treated plants and insects as part of the system rather than as scenery, and placed visitors inside the habitat so that people and animals observe each other. As an agricultural scientist he never opposed use and conservation; his goal was sustainable coexistence with low water and energy input — an approach that anticipates today's environmental enrichment, landscape immersion and sustainable design. He also took research to the public, staging over 130 department-store exhibitions and appearing widely in media. Reading postwar Japanese zoo history through Kondo reveals a lineage that runs from cages to displayed ecosystems.

Keywords

Norio Kondo, biopark, zoo design, landscape immersion, environmental enrichment, Tokyo University of Agriculture, Research Institute of Evolutionary Biology, Nagasaki Bio Park, Izu Shaboten Park, Neo Park Okinawa, Madagascar, plant breeding, natural history, human-nature coexistence, sustainable design

近藤典生、バイオパーク、自然動植物公園、動物園設計、ランドスケープ・イマージョン、環境エンリッチメント、東京農業大学、進化生物学研究所、長崎バイオパーク、伊豆シャボテン動物公園、ネオパークオキナワ、マダガスカル、育種学、自然史、環境共生、生態系的生物生産


脚注・参考文献


  1. 東京農業大学「近藤典生とバイオパーク」食と農の博物館・近藤典生関連展示。 https://nodaiweb.university.jp/muse/kondo/kondo_and_biopark.html ↩︎ ↩︎ ↩︎

  2. 東京農業大学「近藤典生 生誕100年」関連資料『近藤典生博士 生誕100年記念』。 https://nodaiweb.university.jp/muse/kondo/nodai_kondo2015_note.pdf ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎

  3. 一般財団法人進化生物学研究所「ご挨拶」および研究所紹介資料。 https://www.nodai.ac.jp/rieb/images/june_16/greeting.pdf ↩︎ ↩︎

  4. 一般財団法人進化生物学研究所「研究所沿革」。 https://www.nodai.ac.jp/rieb/outline.html ↩︎ ↩︎

  5. 東京農業大学「博物館展示論」近藤典生・自然動植物公園関連資料。 https://nodaiweb.university.jp/muse/text/tenji2020/tenji2020_6-1.pdf ↩︎ ↩︎ ↩︎

  6. 伊豆シャボテン動物公園「会社概要」。 https://shaboten.co.jp/company-outline/ ↩︎

  7. 「サボテン今昔」近藤典生回想資料「植物園の構想」関連ページ。 https://www7a.biglobe.ne.jp/~websabotenkonjaku/kaisou/kaisou_shokubutuen.htm ↩︎

  8. 長崎バイオパーク「施設概要・理念」。 https://www.biopark.co.jp/info/overview/ ↩︎ ↩︎

  9. 長崎バイオパーク公式スタッフブログ「近藤典生先生の思想」関連記事、2010年7月。 https://www.biopark.co.jp/staff/06/2010/07/ ↩︎ ↩︎

  10. LinkClub Newsletter「長崎バイオパーク」関連インタビュー・紹介記事、2003年9月。 https://info.linkclub.or.jp/nl/2003_09/reration.html ↩︎

  11. くらしとバイオプラザ21「進化生物学研究所」紹介・研究者インタビュー。 https://www.life-bio.or.jp/topics/topics523.html ↩︎

  12. 近藤典生「21世紀にそなえての農業における発想の転換——生態系的生物生産の考え方」『進化生物学研究所研究報告』近藤典生定年退職記念号、1986年。進化生物学研究所研究報告一覧。 https://www.nodai.ac.jp/rieb/list/research_paper/03.html ↩︎