飼うことから、残すことへ——日橋一昭と佐藤哲也、二人の動物園人が歩いた四十年
From Keeping to Preserving — Kazuaki Nippashi, Tetsuya Sato, and Forty Years of Japanese Zoos
著:霧星礼知(min.k)|mncc.info / Author: Reichi Kirihoshi (mncc.info)
1. はじめに——この二人について
一九八〇年代半ば、埼玉と姫路
一九八〇年代の半ばのことだ。
埼玉県こども動物自然公園で、一人の飼育員が一羽のオウムの雛と向き合っていた。
オオバタン。インドネシア・モルッカ諸島に生息し、当時すでに急速に数を減らしていた大型の白いオウムである。
国内で初めての人工孵化個体だった。何を、どのくらいの濃度で与えればいいのか、確立した答えはない。彼はチューブで給餌し、その瞬間に雛を喉詰まりで死なせている。数年の試行錯誤を経て、ペット用のミルクから始めて徐々に濃度を上げていくという方法にたどり着いた。
そこへ、兵庫県の姫路セントラルパークで飼育課長を務めていた男が口を挟む。
雛には乳糖の分解酵素がないから危険だ。
飼育員はこう答えた。
上手く行ってんだから問題なし[1]。
埼玉の飼育員の名は、日橋一昭。姫路の飼育課長は、佐藤哲也といった。
三十年後、二人は同じ委員会に
このやりとりから約三十年後、二〇一〇年代の半ば。日橋一昭は日本動物園水族館協会(JAZA)生物多様性委員会の委員長を、佐藤哲也は同じ委員会の副委員長を務めている[2]。日本の動物園全体で、どの希少種を、どの園で、どう残していくかを考える組織である。
さらに二〇二〇年代。佐藤は那須どうぶつ王国と神戸どうぶつ王国の園長として二つの園を率い[3]、日橋は那須どうぶつ王国の教育・普及啓発プロデューサーとして、同じ組織の内部にいた[4]。
四十年前、別々の園から一羽の雛の餌について言い合っていた二人が、最後には同じ動物園にいた。
この距離の縮まり方は、偶然にしてはできすぎている。かといって、二人が示し合わせて同じ道を歩いたわけでもない。
なぜ、動物園ではなく「人」を追うのか
日橋一昭と佐藤哲也は、一般社会で名前を知られた人物とは言い難い。
動物園に関心のある読者でも、園の名前は知っていても園長の名前までは知らない、というほうが普通だろう。
それでも本稿がこの二人を追うのは理由がある。
動物園の歴史が、施設の歴史としてだけでは説明しきれないからである。
動物園について書かれるとき、主語になるのはたいてい、動物やその施設のほうだ。いつ開園し、どんな獣舎を建て、何頭が生まれ、来園者が何万人だったか、などだ。
だが、飼育技術を持っているのは建物ではない。ある種の給餌方法を知っているのも、その方法が間違っていると気づくのも、それを他園に伝えるのも、すべて人間である。
そして人間は、施設と違って「移動」をする。
二人の経歴を追うと、日本の動物園がこの半世紀に経験した変化——動物展示、動物園教育、飼育技術、人工繁殖、希少種保全、動物福祉、園館間協力、そして動物園経営——が、驚くほど二人のキャリアの中に重なって現れてくる。
二人は、この半世紀の動物園を観察するための、たまたま非常に都合のよい二つの窓なのである。
本稿の問い
本稿が追いかけるのは、次の問いである。
なぜ、別々の動物園で働いていた二人が、
- 一九八〇年代には互いの飼育技術について議論し、
- 一九九〇年代には同じ専門職コミュニティに現れ、
- 二〇一〇年代にはJAZAの生物多様性委員会で委員長と副委員長になり、
- 二〇二〇年代には同じ動物園グループで働く
ことになったのか。
言い換えれば、二人の距離が縮まっていく過程で、日本の動物園の側では何が起きていたのか。
本稿が書かないこと
先に、書かないことを明示しておきたい。
第一に、これは「偉大な園長二人の成功物語」ではない。二人とも失敗しているし、業界の変化は二人だけで起こしたものではない。
第二に、これは「親友だった」「宿命のライバルだった」という物語でもない。本稿が調べた範囲で、二人が互いをそう呼んだ資料は確認できていない。年齢差は数年程度で、少なくとも師弟関係を示す資料も確認できない。関係の性質については、資料から確認できることだけを書き、断定は避ける。
そのうえで本稿が見たいのは、次の過程である。
日本の動物園において、個人の飼育経験がどのように研究会や園館ネットワーク、そしてJAZAの制度へ移動し、「種を残す仕組み」へ変わっていったのか。
その過程を、二人の人間の四十年として追う。
2. 「飼う」動物園から「残す」動物園へ
第3章から人物史に入る前に、二人が働いた世界の輪郭を最小限だけ描いておきたい。
日本の動物園の通史を書くのが目的ではないので、日橋と佐藤の仕事を理解するために必要な範囲に限る。
2-1. 戦後の動物園と「見せる」仕事
戦後日本の動物園は、単一の目的を持った施設ではなかった。
それは行楽地であり、子どもの遊び場であり、人気動物を見せる場所であり、同時に教育の場でもある。これらは互いに矛盾しうるが、多くの園は矛盾を抱えたまま運営されてきた。
そういった背景の中で、あえて動物園のなかで「教育」という機能を意識的に立ち上げようとした系譜がある。上野動物園の子供動物園はその代表格で、遠藤悟朗が一九四九年に上野動物園へ採用され、この子供動物園やサマースクールといった実践に関わっていった[5]。
遠藤の関心は、動物を見せることそのものより、子どもと動物のあいだにどんな関係をつくるかにあった。一九七一年には、社会教育の実践史として「子ども動物園の創造」を発表し[6]、一九七八年には『子ども動物園』を刊行している[7]。
つまり日本の動物園には、少なくとも一九七〇年代の時点で、動物を見せる仕事とは別に、動物園という場所そのものをどう使うかを考える仕事が存在していたのである。
2-2. 「動物園教育」というもう一つの仕事
遠藤の関心は、個人の活動にとどまらなかった。
一九七五年、日本動物園水族館教育研究会が設立される。この初代会長は遠藤悟朗だった[8]。この研究会は、園の枠を越えて、動物園における教育実践を持ち寄り、発表し、議論する場である。
高橋宏之が整理したところによれば、この研究会には各園の担当者が実践報告を持ち寄り、ボランティア活動、園内の自然、展示の工夫、サマースクールといったテーマが繰り返し扱われている[9]。
ここを押さえておきたいのは、第3章のためである。
一九八〇年に埼玉県こども動物自然公園へ入った日橋一昭。一九七八年前後に群馬サファリパークで動物管理の仕事を始めている佐藤哲也。彼らが入った世界には、戦後三十年かけて形成された動物園教育の専門家コミュニティが、すでに存在していた、ということが重要なのだ。日橋の若手時代の仕事は、そのコミュニティの内側で行われている、ということを意識しておく必要がある。
2-3. 繁殖技術は、まだ「現場で作るもの」だった
一方、飼育・繁殖の技術については、事情がかなり違った。
日橋自身が二〇二四年の文章で書いているように、現在ではオウム用の人工育雛飼料が市販されており、一九八〇年代とは隔世の感がある[1:1]。逆に言えば、当時はそれがなかった。
現在ほど専用飼料や体系化された栄養情報を利用できる環境ではなかった。にもかかわらず、希少種の人工繁殖は目の前の課題として存在した。
では、飼育技術はどこで作られたのか。
現場である。飼育員がやってみて、失敗し、方法を変え、他園に聞き、うまくいけば続ける。そのうえで、より確からしい説明を求める者は、大学の研究者と組んで検証しようとする。
佐藤哲也が姫路セントラルパークの飼育課長だった時代に、岐阜大学などと希少動物の飼育繁殖に関する勉強会を組織していたこと[10][11]は、まさにこの文脈に置かれる。現在の野生動物保全繁殖研究会は、その前身である希少動物人工繁殖研究会の発足に佐藤が尽力したことを記録している[10:1]。
第3章と第4章で描かれる二人の若手時代は、飼育技術が、まだ制度ではなく人の手の中にあった時代である。
2-4. 「一頭を増やす」から「個体群を残す」へ
そしてもう一つ、繁殖をめぐる前提の変化がある。
繁殖に成功することと、種を保全することは、同じではない。
ある園で一頭が生まれても、次の世代で交配できる相手がいなければ血統は偏る。飼育スペースには限りがあり、無限に増やすこともできない。世代を更新し続けられなければ、飼育下の個体群はいずれ消える。
したがって、種を残そうとするなら、園の外側を見る必要が出てくる。誰と誰を繁殖させるかを世界規模で管理する血統登録。園と園のあいだで個体を貸し借りするブリーディングローン。譲渡や交換。そして、日本の動物園全体でどの種を飼うのかを決めるコレクションプランニングである。
日橋一昭は二〇一三年の環境省の検討会で、同じ動物を飼うなら希少種を飼うべきこと、一つの園だけでは保全できないこと、そのために園館間の協力とコレクションプランニングが必要であることを語っている[12]。後年の専門書『動物園学入門』では、日橋自身が「動物の収集計画(コレクション・プランニング)」の章を担当した[13]。
この転換——一頭を増やす仕事から、個体群を残す仕組みをつくる仕事へ——が、第3章後半の日橋と、第5章のJAZAでの合流を理解する前提になる。
2-5. 二人が動物園界に入った時代
ここで、一九七〇年代末から八〇年代初頭に戻る。
日橋一昭は一九七四年、東京経済大学の在学中に東京動物園ボランティアーズの第一期生として動物園に関わり始め、一九八〇年、開園と同時に埼玉県こども動物自然公園へ入った[4:1]。
この園は一九八〇年の開園で、当初の飼育動物は家畜と少数の鳥類が中心だった[14]。県の資料には、「こどもが動物と親しむ」「こどもが自然の中で情操と科学心を養う」「こどもがリラックスして遊べる」という三つの基本理念が記されている[15]。教育志向の強い県立園である。
一方の佐藤哲也は、二〇一五年時点のプロフィールにある「動物関連事業経験三十七年」から逆算すると、一九七八年前後に群馬サファリパークで動物管理の仕事を始めている[16]。そして一九八三年、姫路セントラルパークへ移り、動物飼育部門の総責任者を務めるようになった[17]。
県立の教育志向の園と、サファリ型の商業施設。ほぼ同時期に、まったく異なる入口である。
ここから先は本稿の見立てだが、二人がキャリアを始めたのは、日本の動物園が「どう飼うか」をまだ現場で模索しながら、同時に「なぜ飼うのか」を問い直し始めた時期にあたる。教育の専門家コミュニティはすでにあり、繁殖技術はまだ個人の手の中にあり、個体群管理という発想はこれから輪郭を持とうとしていた。
二人はその時代に、別々の場所から入っていった。
3. 日橋一昭——教育から保全へ、個体から「箱舟」へ
3-1. 動物園に入り込んだ大学生
日橋一昭の経歴は、動物学でも獣医学でも畜産学でも始まらない。
一九五三年、東京都立川市生まれ。確認できる学歴は東京経済大学経営学部で、動物学・獣医学系の専門課程ではない。それでも在学中の一九七四年、彼は東京動物園ボランティアーズの第一期生として動物園に関わり始める[4:2][18]。
この順序は、日橋という人物を理解するうえで案外重要である。
これは、動物学や獣医学などの専門教育を経て動物園へ入る経路とは異なっていた。専門技能を先に身につけて動物園に入ったのではなく、動物園という場所そのものに惹かれた大学生が、ボランティアという裏口から内部に入り込み、そのまま居着いたという形になっている。本人の紹介文でも、大学時代にボランティアを始めたことがきっかけだったと説明されている[19]。
後年の日橋は、希少鳥類の人工育雛から国際血統登録、複数園の園長職、日本動物園水族館協会(JAZA)の保全政策までを扱う人物になる。だがその出発点にあったのは技術でも資格でもなく、「この場所は何をしているのか」という関心だった。技術はすべて、入り込んだあとで身につけている。
3-2. 一九八〇年、遠藤悟朗のいる埼玉へ
一九八〇年、日橋は埼玉県こども動物自然公園に、開園時のスタッフとして勤務を始める[4:3][20]。
この職場には、すでに明確な思想があった。初代園長は遠藤悟朗。先ほども述べたように、上野動物園の子供動物園を長く担当し、一九七五年に発足した日本動物園水族館教育研究会の初代会長を務めた、日本の動物園教育の中心人物である[8:1]。
つまり日橋が最初に本格的なキャリアを築いた現場には、開園の時点で、
- 動物園は教育施設である
- 子どもと動物のあいだに関係をつくる
- 園内の自然環境そのものも教材になる
という前提が置かれていた。
もっとも、ここで「日橋は遠藤の弟子だった」と単純化するのは避けたい。師弟関係を示す本人発言は確認できない。確認できるのは、若手時代の日橋が教育実践を主要な仕事の一つとしていた、という活動記録のほうである。
動物園教育研究会の記録を追った高橋宏之の論考には、日橋の発表が繰り返し登場する。「動物園におけるボランティア活動について」「埼玉県こども動物自然公園の紹介」「zooオリエンテーリング——ふんの展示」「埼玉県こども動物自然公園内の自然についての活動」。さらに、遠藤悟朗が「動物園教育概論」を講演したのと同じ研究会で、日橋一昭・田中理恵子が「サマースクールの企画と実施」を発表している[9:1]。
並べてみると、若い日橋が扱っていた領域の性質が見えてくる。動物の解説ではなく、来園者の動線、園内の自然、糞の展示、ボランティアの組織化、夏休みのプログラム設計。要するに彼は、動物について説明する仕事ではなく、動物園という装置をどう使うかという仕事を、二十代のうちから引き受けていた。
3-3. 手のひらに残った雛
ただし、日橋を「教育畑の人」として整理してしまうと、彼の人物史の中心にある場面が抜け落ちる。
ここで、冒頭のオオバタンの繁殖に取り組んでいた日橋の話が出てくる。
卵は孵る。しかし親鳥が育てない。人工育雛に切り替えるほかなかった。
それは、国内で初めての人工孵化個体であった。何を、どのくらいの濃度で、どう与えればいいのか、確立した答えはない。飼料と給餌法を議論しながら、日橋自身がチューブで給餌した。その瞬間、雛は喉を詰まらせて死んだ[1:2]。
日橋は四十年近くたった二〇二四年の文章で、そのときの雛の感覚がいまも手のひらに残っている、という趣旨を書いている[1:3]。
この一文の重さは、後年の日橋の肩書きを知っているほど増す。JAZA理事、生物多様性委員長、複数園の園長、国際血統登録担当[4:4]。制度と政策を語る立場にいる人物の原点に、自分の手で動物を死なせた若い飼育員がいる。
その後、数年にわたる試行錯誤が続いた。最終的に日橋は、ペット用のミルクで初期を乗り切り、徐々に濃度を上げていく方法で人工育雛を成立させる[1:4]。
そこに、姫路セントラルパークの飼育課長だった佐藤哲也が口を挟む。
雛には乳糖の分解酵素がないから危険だ。
日橋の返答はこうだった。
上手く行ってんだから問題なし[1:5]。
本稿にとって重要なのは、どちらが正しかったかではない。一九八〇年代半ばの時点で、埼玉の飼育員と姫路の飼育課長が、互いの人工育雛の方法について具体的な技術論を交わせる関係にあったという事実である。現時点で確認できる、二人の最も古い直接的な接触はここにある。
この時点で、日橋はまだ園長ではない。佐藤も経営者ではない。二人とも、現場で鳥を育てている途中だった。
3-4. 経験を絶対視しない人
この回想には続きがある。
日橋は、当時佐藤の忠告を撥ねつけたことを「良い思い出」として振り返りながら、現在ではオウム用の人工育雛飼料が市販されており当時とは隔世の感がある、と書く。そして、栄養や給餌法に関する最新の研究成果を取り入れ、種や分類群の特徴に応じて研鑽していく必要がある、という趣旨で文章を結んでいる[1:6]。
短い回想文だが、人物像がかなり出ている。
- 自分の失敗を、四十年たっても具体的に書く
- 自分が成功させた方法にも固執しない
- 現場の試行錯誤を重視する
- しかしその経験を、後から科学的知見で更新することを当然とする
- 数十年前に自分へ異論を述べた相手の存在まで含めて記憶している
ここには、後年の日橋が業界全体の保全政策へ向かう素地がある。「自分の園で上手くいった」を「業界全体で再現可能な方法」へ書き換えるには、自分の成功体験を一度手放せる必要があるからだ。
3-5. 一個体から一種へ——コウノトリ、ツル、国際血統登録
日橋の仕事の単位は、この時期から少しずつ大きくなっていく。
埼玉県こども動物自然公園の開園後、日橋は国際ツル財団のジョージ・アーチボルドとの交流をきっかけに、「埼玉の空にコウノトリを戻そう」という構想に関わっていく[21]。
この構想は、動物園の内部で完結しない。輸入し、施設を整え、繁殖を試み、失敗し、また試みる。同園がニホンコウノトリを中国から導入したのは一九八八年四月のことで、その先導には初代園長・遠藤悟朗がいた。孵化に至るまでには、そこから二十七年近くを要している[22]。
一羽を育てる技術の話と、種を野生へ戻す話は、時間の単位からして違う。日橋はこの時期に、後者の時間軸に足を踏み入れている。
その後、日橋はマナヅルの国際血統登録担当者を務めるようになる[4:5]。血統登録とは、要するに、
- 誰と誰を繁殖させるか
- 遺伝的多様性をどう維持するか
- どの個体をどの園へ動かすか
を考える仕事である。日橋が担当したのは国際血統登録であり、そこでは登録対象となる世界の飼育個体群を一つの集団として見ることになる。
自園の一羽ではなく、登録対象となる飼育個体群の全体が視野に入る。二十代でボランティアとして動物園に入り込み、三十代で雛を死なせた人物が、いつのまにか国境を越えた個体群の側から動物を見る位置に移っている。
3-6. 世界の動物園を歩く
もう一つ、日橋の人物史に欠かせない要素がある。
二〇二二年時点のプロフィールによれば、日橋は世界二十五か国、一七〇以上の動物園・水族館を訪れている。しかも職務上の研修だけでなく、自ら海外の園を見て回ることを長年続けてきた人物として紹介されている[4:6]。一時期のプロフィールでは「海外の動物園一〇〇園以上訪問」と記されており、この数字が年々積み上がっていったことがわかる[23]。
これは単なる旅行歴ではない。動物園を見に行く人は、動物だけを見ない。展示、園路、解説、建築、動物と来園者の距離、飼育員の動き方、園全体が何を主張しているか。それらを比較可能な形で蓄積している人物が、のちに複数の園の園長を務め、業界全体のコレクション政策を担うことになる。
ここは慎重に書いておきたい。「一七〇園を見たから政策を作れた」と因果で結ぶ資料は確認できない。確認できるのは、日橋が自分の経験を一般化する前に、他者の実践を大量に見る習慣を持っていたという事実だけである。ただ、その事実は、彼の後年の議論の性格をよく説明する。
3-7. 園長になっても「自分の園」の話で終わらない
日橋は、大宮公園小動物園、埼玉県こども動物自然公園、智光山公園こども動物園、井の頭自然文化園などで園長職を歴任している[4:7][18:1]。
肩書きを並べると単なる出世の記録に見えるが、動物園という職場の性質を考えると、この移動には別の意味がある。
一つの園に長く勤め、その園の飼育技術と展示思想を完成させていくタイプの専門家は、動物園界に多い。日橋はそうではない。園から園へ移動し、そのたびに前の園で得た知識を持ち運ぶタイプである。教育、飼育技術、希少種繁殖、園館間の協力といった論点を、特定の施設の事情から切り離して考える立場に、彼は繰り返し置かれてきた。
3-8. 「箱舟の定員」を決める側へ
日橋の思想が最も明確な形で記録されているのは、二〇一三年、環境省の「動植物園等の公的機能推進方策のあり方検討会」の議事録である[12:1]。
先ほども少し触れたが、ここで日橋は、同じ動物を飼うのであれば希少種を飼うべきこと、一つの園だけでは種を保全できないこと、そのためにブリーディングローンや園館間の交換・譲渡が必要であること、そして日本の動物園全体で何を飼うかを決めるコレクションプランニングの必要性を語っている[12:2]。
そのなかで彼は、動物園を「箱舟」にたとえ、その箱舟に何を載せるか、定員をどう考えるか、という比喩を用いている[12:3]。
この比喩には、日橋のキャリアがそのまま畳み込まれている。
若い頃の彼が考えていたのは、一羽のオウムの雛に何を飲ませれば生き延びるかだった。数十年後、彼が考えているのは、日本の動物園という限られた空間に、どの種を載せるかである。
この思想は、彼個人の意見にとどまらなかった。のちに刊行された専門書『動物園学入門』では、日橋自身が「動物の収集計画(コレクション・プランニング)」の章を担当している[13:1]。現場の判断だったものが、業界の共有知として書かれる側に回っている。
日橋章 結論
日橋一昭のキャリアを「教育から保全へ」と要約するのは、簡潔ではあるが正確ではない。
より正確には、こうなる。
動物園という場所に惹かれて入り込んだ一人の大学生が、教育プログラムをつくり、鳥を飼い、自分の手で雛を死なせ、繁殖を成立させ、園を運営し、世界中の動物園を歩き、最後には自分の園の外側にある個体群まで考えるようになった、視野の拡張の歴史である。
そしてその拡張は、常に「園の外」へ向かっていた。
4. 佐藤哲也——飼育技術から、動物園そのものをつくるまで
4-1. 『子鹿物語』を見た少年
佐藤哲也の出発点は、日橋とは対照的にわかりやすい。
東京都青梅市に生まれ、幼少期に映画『子鹿物語』を見て感動し、将来は動物園で働きたいと考えるようになった——本人が二〇一五年のプロフィールでそう語っている[16:1]。
生年は一九五〇年代後半。二〇二四年三月に六十七歳で亡くなっていることから逆算すると、一九五六年から五七年のあいだと推定される。ただし確定的な資料は本稿執筆時点で確認できていない。
同じ二〇一五年のプロフィールには、その時点で「動物関連事業経験三十七年」とある[16:2]。ここから逆算すると、動物の仕事を始めたのは一九七八年前後ということになる。この年代も本稿では逆算値として扱う。
最初の職場は群馬サファリパーク。飼育員として動物管理に携わった[16:3][17:1]。日橋が埼玉県こども動物自然公園の開園スタッフになるのが一九八〇年だから、二人はほぼ同時期に、まったく異なる入口から動物園の実務世界に入ったことになる。
片方は県立の教育志向の園、片方はサファリ型の商業施設である。
4-2. 一九八三年、姫路——二十代の飼育部門責任者
プロフィール資料では、佐藤は一九八三年に姫路セントラルパークへ移り、動物飼育部門の総責任者を務めたとされる[17:2]。ただし、二〇一五年時点の本人プロフィールは群馬サファリパークから姫路への移動を年代抜きで記しており[16:4]、一九八三年という年は別のプロフィール資料に依拠している。
この年が正しければ、佐藤はこのときまだ二十代半ばである。のちに「飼育課長」「飼育部長」といった肩書きでも確認される[24][11:1]。
これは佐藤のキャリア全体を考えるうえで決定的に重要な事実だと思う。
佐藤はしばしば「飼育員から経営者になった人」と語られる。だが、経営や組織運営が晩年に付け加わった能力だと考えると、彼のキャリアは分断されて見えてしまう。実際には、二十代の時点ですでに、一頭の動物をどう飼うかではなく、複数の動物と複数の飼育員をどう動かして飼育部門全体を成立させるかを考える立場にいた。
一九八〇年代半ば、埼玉の日橋がオオバタンの人工育雛に苦戦していた頃、佐藤は姫路の飼育課長として、他園の給餌方法に技術的な異論を述べる人物になっていた[1:7]。
二人が出会ったのは、どちらも園長でも委員長でもない時代である。
4-3. 一九八〇年代——すでに繁殖技術をめぐる議論の中心にいた
第3章で日橋の側から見たオオバタンの一件を、ここでは佐藤の側から読み直しておきたい。
姫路の飼育課長だった佐藤は、埼玉で行われている人工育雛の内容を把握していた。そしてその飼料が生理学的に妥当かどうかを検討し、他園の担当者に対して直接それを伝えている[1:8]。
ここから読み取れるのは三つある。
- 他園の繁殖の進捗を具体的に知っていた
- 飼料を「経験上うまくいくか」ではなく「生理学的に説明できるか」で見ていた
- それを他園の人間に直接ぶつけられる関係を持っていた
ただし、ここで「佐藤=理論派、日橋=経験派」という図式を作るのは避けたい。佐藤自身、飼育・繁殖・トレーニングの実務経験を重ねた、徹底した現場の人である。より正確に言えば、佐藤の特徴は、現場で成立している技術を、動物の生理や行動から説明可能なものに変えようとする傾向にあった。
そしてその傾向は、彼を一人の飼育技術者にとどめなかった。
4-4. 希少動物人工繁殖研究会——自分だけ上手くやるのではなく、共有する
現在の野生動物保全繁殖研究会は、その前身である希少動物人工繁殖研究会の発足に佐藤が尽力したことを、研究会自身の記録として残している[10:2]。
同業者である成島悦雄の追悼文には、より具体的な場面が書かれている。成島が佐藤と初めて会ったのは約三十年前、姫路セントラルパークの飼育課長だった佐藤が、岐阜大学などと組んで希少動物の飼育繁殖に関する勉強会を主催していた場だった[11:2]。繁殖研究者の側からも、園館スタッフと科学者が協働する保全繁殖の潮流を作った動きとして、この研究会の位置づけが語られている[25]。佐藤の名前は、晩年に至るまで大学の繁殖研究ネットワークの記録に残り続けている[26]。
ここで佐藤の人物像が一段広がる。
彼は「繁殖が上手な飼育課長」ではなかった。現場の技術を、飼育員同士と研究者の共通知に変えようとした人だった。
佐藤らが大学の研究者を巻き込んだ研究会を組織した事実は、園館の経験知を共有し検証する必要が、当時すでに現場で意識されていたことを示している。経験知を、検証可能な知識へ接続しようとする動きである。
この時期の活動は、佐藤の後年を理解する伏線になる。**保全は園長になってから始めた仕事ではない。**まだ二十代から三十代の飼育管理職だった時代に、すでに始まっていた。
なお、佐藤の活動は繁殖技術だけに閉じていない。一九九三年、日本動物園水族館教育研究会の第三十四回大会が姫路セントラルパークで開催され、佐藤自身が「動物を利用したアトラクションによる自然・動物保護の啓蒙について」を発表している。大会テーマは「保護のための会話」だった[27]。
つまり佐藤は、一九九〇年代初頭の時点で、遠藤悟朗以来の動物園教育コミュニティにも明確に参加している。後年、佐藤が神戸どうぶつ王国について語る「ショーに教育を盛り込む」という発想との連続性が見える。
4-5. 一九九九年、飼育技術者が会社をつくる
一九九九年、佐藤はアニマルエスコートサービス(AES)を設立する[17:3][28]。
これを単なる「独立」や「転職」として処理すると、佐藤のキャリアで最も異質な転換点を取りこぼすことになる。
AESが担ったのは、動物の輸送、飼育指導、動物施設の運営、イベントや展示、専門技術の提供といった業務だった[28:1][3:1]。つまりこの会社は、動物園の内部にいた飼育技術者が、その技術を園の外へサービスとして持ち出した組織である。
見方を変えれば、AESは各園が自分たちだけでは解決できない飼育上の問題を引き受ける会社でもあった。
独立から二年後、二〇〇一年の資料に記載された佐藤の肩書きを見ると、この会社の性格がはっきりする。
- JAZA認定飼育技師
- 希少動物人工繁殖研究会 代表幹事
- 元・姫路セントラルパーク動物部門総括責任者
- 元・JAZA運営委員
- 元・日本動物園水族館教育研究会 副会長[28:2]
独立したから専門家になったのではない。専門家として蓄積した能力を、独立という形で別の器に移したのである。
4-6. 二〇〇六年、那須——飼育を成立させるために経営を引き受ける
二〇〇六年、佐藤は那須どうぶつ王国の経営に本格的に参画し、園長となる[17:4][3:2]。
ここで「飼育員が経営者になった」と書くと、やはりキャリアが分断されて見える。むしろ、本稿の見立てとして言い換えるなら、自分が正しいと考える飼育と展示を持続的に実現するために運営そのものを引き受けるようになった、と読んだほうが佐藤の行動は一貫する。
那須で佐藤が同時に成立させようとしたものを並べると、その難度がわかる。
動物と来園者の距離、行動展示、パフォーマンス、希少種、繁殖、教育、そして集客。
これらの要請は、しばしば緊張関係に置かれる。佐藤の仕事は、その緊張を設計で解こうとするものだった。
彼にとって経営とは、飼育とは別の仕事ではなく、飼育を成立させるための条件整備だった可能性が高い。
4-7. 神戸花鳥園を「どうぶつ王国」に
二〇一四年、佐藤は経営難に陥っていた神戸花鳥園の運営を引き継ぎ、神戸どうぶつ王国として再出発させる[17:5][29]。
この時期のインタビューは、佐藤の思想が最もまとまった形で語られている資料である[29:1]。
彼はそこで、動物と触れ合える環境やショーを充実させてエンターテインメント性を高めるという方針を語る一方で、ふれあいは動物を置けば成立するものではなく、人との接触を嫌がらないよう段階的なトレーニングが必要だと説明している。バードショーについても、単なる見世物ではなく、鳥の飛行や生態への理解を組み込むべきだと述べている[29:2]。
ここに佐藤の思考の型がよく出ている。
彼は、
- 経営 対 動物福祉
- 娯楽 対 教育
- 集客 対 保全
を、どちらかを選ぶ二者択一として扱わない。全部を同時に成立させるべき設計問題として扱う。
そしてこの姿勢は、姫路の飼育課長時代から続く「現場を成立させる」という一貫した態度の延長線上にある。彼が扱う「現場」の範囲が、一つの獣舎から一つの園全体へ広がっただけである。
4-8. 厳しい園長——「野生の姿」への執着
晩年の佐藤を追った二〇二三年の密着取材は、管理者としての人物像を伝えている。
念願だった新エリアが完成しても、佐藤は満足しない。人工物が見える、植木鉢が目につく、野生の環境に見えない——そうした細部についてスタッフに厳しく修正を求め、「まだ完成ではない」という態度を崩さなかった[30]。
これを「部下に厳しい名物園長」という話で終わらせると、佐藤のキャリアとの接続が切れてしまう。
若い頃から、動物の行動と生理をどう成立させるかを考え続けてきた人物である。その要求水準が、獣舎の給餌設計から施設全体の景観にまで適用されるようになった、と読むほうが自然だろう。彼にとって「野生の姿」は演出のテーマではなく、動物が動物として振る舞える条件の問題だった。
4-9. 希少種保全は「儲かった後にやる慈善」ではない
佐藤の晩年の仕事は、施設の外側に向かっている。
JAZAの生物多様性委員長として、生殖細胞の凍結保存施設——いわゆる「冷凍動物園」——の整備、飼育動物の適正施設ガイドライン、動物福祉の向上、ニホンライチョウの繁殖と野生復帰などに取り組んだことが、同業者によって記録されている[11:3]。佐藤の生物多様性委員長在任は、協会の公式資料でも確認できる[31]。
とりわけ象徴的なのは、二〇二一年、コロナ禍で観光施設の経営環境が極めて厳しかった時期に、那須にニホンライチョウの野生復帰順化施設を完成させたことである[11:4]。
ここに佐藤の思想がある。
保全は、余裕ができたらやる活動ではない。動物園の本業である。
経営が苦しいときに保全施設を作るという判断は、この前提がなければ出てこない。ツシマヤマネコの保全に関わる実務者は、佐藤を希少種保全の最前線をリードし、動物飼育技術を次世代へ継承した人物として追悼している[32]。
4-10. 「地獄の仏さま」
成島悦雄(日本動物園水族館協会顧問)の、佐藤に対する追悼文には、佐藤の人物像を端的に示すエピソードがある。
約二十年前、上野動物園から横浜へアジアゾウを移送する直前になって、予定していた輸送業者が突然キャンセルした。担当だった成島が困り果てて佐藤に電話をかけると、佐藤は翌日の仕事であるにもかかわらず二つ返事で引き受けた。成島はこの箇所に「地獄の仏さま」という見出しを付けている[11:5]。
追悼文であるから、当然ながら故人への好意的な記述として読む必要がある。断定的な性格分析には使えない。
それでも、この一件が示唆することはある。佐藤の「活動範囲の広さ」は、彼が野心的に仕事を増やした結果というだけでなく、他人から「この人なら何とかする」と頼られ、その都度引き受けた結果でもあった可能性が見える。
少なくとも成島の回想からは、特殊な動物輸送を任せられる技術者として佐藤が頼られていたことがわかる。
4-11. 佐藤章の結論——飼育技術を実装するために、仕事の範囲を広げ続けた人
佐藤哲也を「希少種保全に熱心だった名園長」とまとめてしまうと、彼のキャリアの最も面白い部分が消える。
人物史としては、こうまとめたい。
動物を上手く飼うことから出発し、その技術を他の飼育員や研究者と共有し、他園の困りごとを引き受け、会社を作り、施設を経営し、最終的には日本全体の保全制度まで、仕事の範囲を広げ続けた人物である。
そして、ここで第5章へ話を戻す必要がある。
その佐藤は、一九八〇年代半ばの時点で、すでに埼玉の日橋の人工育雛に口を出していた[1:9]。
二人はキャリアの後半で偶然出会ったのではない。まだどちらも「園長」でも「生物多様性委員長」でもなかった時代から、互いの仕事を知っていた。
5. 二つの軌道——日橋一昭と佐藤哲也の四十年
5-1. 四十年を並べる
ここまで別々に追ってきた二人の経歴を、並べて見る。
目的は履歴の比較ではない。二人の距離が、四十年かけてどう縮まったかを見るためである。
一九七〇年代末から八〇年代、二人は別々の入口から動物園界に入る。
八〇年代半ばにはすでに直接の技術論を交わしている。
九〇年代には、それぞれ全国規模の専門家ネットワークへ活動を広げる。
二〇一〇年代にはJAZAの生物多様性委員会で同じ政策領域を担い、二〇二〇年代には同じ「どうぶつ王国」の内部で仕事をすることになる。
| 年・時期 | 日橋一昭 | 佐藤哲也 | 二人の関係 |
|---|---|---|---|
| 1950年代 | 1953年、東京都立川市生まれ | 1950年代後半、東京都青梅市生まれ(没年齢からの逆算) | 年齢差は数年程度。同世代 |
| 1974 | 東京経済大学在学中、東京動物園ボランティアーズ第1期生 | — | 日橋は教育・ボランティアを入口に |
| 1978年前後 | ボランティア活動を継続 | 群馬サファリパークで飼育員として勤務開始(経験年数からの逆算) | ほぼ同時期、異なる入口から実務世界へ |
| 1980 | 埼玉県こども動物自然公園、開園時から勤務。初代園長・遠藤悟朗のもとで教育・飼育・希少種繁殖に関わる | 群馬サファリパークで飼育経験を積む | 県立の教育志向の園と、サファリ型施設 |
| 1983 | 同園に勤務 | 姫路セントラルパークへ。動物飼育部門の総責任者に | 佐藤は二十代半ばで飼育部門全体の管理へ |
| 1980年代中頃 | オオバタンの人工育雛。自らの給餌で雛を死なせ、その後方法を確立 | 姫路の飼育課長として「乳糖の分解酵素がない」と忠告 | 確認できる最古の直接交流 |
| 1980年代後半〜90年代初頭 | 動物園教育研究会でボランティア・園内自然・サマースクール等を発表。コウノトリ等の保全にも関与 | 岐阜大学等と希少動物繁殖の勉強会を組織 | 双方とも、自園の経験を園外へ持ち出し始める |
| 1993 | 動物園教育研究会の主要な実践者 | 姫路で第34回日本動物園水族館教育研究会を開催、自ら発表 | 同じ教育研究コミュニティに所属。日橋の同大会出席は未確認 |
| 1999 | 教育・保全分野で活動 | アニマルエスコートサービス(AES)設立 | 双方とも専門知を「自園の外」へ流通させる段階に |
| 2000前後 | 日本動物園水族館教育研究会 副会長 | 同研究会の「前副会長」として2001年資料に記載 | 双方とも同研究会の執行側を経験。同時在任かは未確認 |
| 2006 | 複数園の園長職 | 那須どうぶつ王国 園長 | 佐藤は専門技術を施設経営へ拡張 |
| 2013 | 環境省検討会で「箱舟」「コレクションプランニング」を語る | 那須を率いつつ保全活動を拡大 | 日橋の個体群管理思想が明文化される |
| 2014 | — | 神戸花鳥園を引き継ぎ、神戸どうぶつ王国として再出発 | 佐藤は飼育思想を施設再生へ実装 |
| 2015前後 | JAZA生物多様性委員会 委員長 | 同委員会 副委員長 | 最大級の直接交差 |
| 2016以降 | JAZA・園長職等を歴任 | JAZA生物多様性委員長へ | 役職上の連続性。ただし後継指名は確認できない |
| 2022 | 那須どうぶつ王国 教育・普及啓発プロデューサー | 那須・神戸どうぶつ王国 園長 | 同じ運営現場で再び交差 |
| 2024年3月 | どうぶつ王国側で活動 | 死去 | 生前の交差が終わる |
| 2024年4月・7月 | 神戸、次いで那須の園長として確認される | — | 佐藤が率いた二園を日橋が担う |
5-2. 最初の交差——オオバタンと飼育技術
四十年の起点にあるのは、一羽のオウムの雛である。
日橋は埼玉県こども動物自然公園で、モルッカ諸島に生息するオオバタンの繁殖に取り組んでいた。孵化には成功したが親鳥が育てず、人工育雛に切り替える。国内初の人工孵化個体に対し、日橋自身がチューブで給餌した際、雛は喉を詰まらせて死んだ。その後、数年の試行錯誤を経て、ペット用ミルクを用いた育雛法を成立させる[1:10]。
その過程で、姫路セントラルパークの飼育課長だった佐藤が「雛には乳糖の分解酵素がないから危険だ」と忠告し、日橋は「上手く行ってんだから問題なし」と撥ねつけた。後年の日橋は、この出来事を「良い思い出」として回想している[1:11]。
このエピソードを、単に「面白い口論」として消費しないでおきたい。ここから確認できるのは次のことである。
- 二人はすでに互いの仕事を知っていた
- 別の園の飼育方法について、具体的な情報が流通していた
- 佐藤は日橋へ直接、技術的な異論を言える関係にあった
- 日橋はその関係を、四十年近くたっても記憶していた
二人の関係は、園長やJAZA役員になってから始まったのではない。まだ二人とも現場の専門職だった時代から始まっている。
5-3. 二人をつないだ「園の外」——研究会と横のネットワーク
一九八〇年代後半から九〇年代にかけて、二人の活動はそれぞれ自園の外へ広がっていく。
日橋は日本動物園水族館教育研究会で、ボランティア活動、園内の自然、zooオリエンテーリング、サマースクールといった実践を発表している[9:2]。
佐藤は希少動物の人工繁殖について、岐阜大学などの研究者と勉強会を組織していた[11:6][10:3]。
ここで、「教育の日橋、飼育の佐藤」という整理が成立しないことを確認しておきたい。
一九九三年、日本動物園水族館教育研究会の第三十四回大会が姫路セントラルパークで開催され、佐藤自身が「動物を利用したアトラクションによる自然・動物保護の啓蒙について」を発表している[27:1]。佐藤は一九九〇年代初頭の時点で、動物を使った見世物を、どうすれば自然保護の啓蒙へ接続できるかを考えていた。
逆に日橋は、オオバタンの人工育雛という、これ以上ないほど現場的な飼育を経験している[1:12]。
したがって二人の違いは、扱った領域そのものにあるのではない。専門性をどの方向へ伸ばしたかにある。
もう一つ、二人の距離を示す記録がある。二〇〇〇年前後の著者紹介で、日橋は日本動物園水族館教育研究会の副会長として記載されている[23:1]。そして二〇〇一年の佐藤のプロフィールには、同研究会の「前副会長」という肩書きがある[28:3]。
在任時期が重なっていたのか、順番に務めたのかは、現時点の資料では確認できない。確認できるのは、二人がともに同じ専門職コミュニティの執行側を経験していたということである。
ここから見えてくるのは、日本の動物園の構造そのものだ。飼育技術は、それぞれの施設の内部だけで育ったのではない。研究会、学会、そして個人的な交流を通じて、園を越えて流通していた。
5-4. 似ているようで違う——二人の専門性はどこへ広がったか
ここで二人を比較する。
日橋一昭
出発点は動物園教育とボランティア。初期は教育実践と、希少鳥類の飼育・繁殖。そこから国際血統登録、園館間の協力、コレクションプランニングへ進み、到達点は園を越えた個体群管理と保全政策だった。
個体 → 種 → 園館ネットワーク
日橋の専門性は、主として横方向に拡張している。管理する単位が、一羽から、種全体へ、さらに世界中の飼育個体群へと広がっていく。
佐藤哲也
出発点は動物飼育そのもの。初期は飼育・繁殖と飼育部門の管理。そこから研究会の組織、飼育指導、AESの設立、動物園の運営へ進み、到達点は園の経営と業界の保全政策だった。
個体 → 飼育組織 → 会社 → 動物園経営 → 業界政策
佐藤の専門性は、組織の階層を縦方向にも拡張している。同じ「飼育を成立させる」という課題を解くために、必要な決裁権限の高さを上げ続けた、と言い換えてもいい。
繰り返すが、これを「教育の日橋 対 飼育の佐藤」に読み替えてはいけない。日橋には濃密な現場経験があり[1:13]、佐藤には早い時期からの教育・啓発活動がある[27:2][29:3]。
正しい比較はこうなる。
日橋は専門性を園館ネットワークへ広げ、佐藤は専門性を組織運営と経営へ広げた。
そして二人は、まったく異なる方向へ進みながら、最終的に同じ場所へ到達する。
5-5. 「箱舟」を考える側へ——JAZAでの合流
二〇一〇年代、二人のキャリアは制度の内部で明確に重なる。
確認できる資料では、日橋一昭がJAZA生物多様性委員会の委員長、佐藤哲也が同委員会の副委員長として、同じ委員会を担っている[2:1]。
ここで、問題のスケールを比べてみたい。
一九八〇年代の二人が議論していたのは、こういう問題だった。
一羽のオウムの雛に、何を、どのくらいの濃度で与えれば生き延びるのか。
二〇一〇年代の二人が扱っていたのは、こういう問題である。
日本の動物園全体で、どの種を残すのか。どの園がどの種を担当するのか。どの個体をどこへ移動させるのか。遺伝的多様性をどう維持するのか。限られた飼育スペースをどう使うのか[12:4]。
日橋はこれを「箱舟」の比喩で説明した[12:5]。
一九八〇年代、二人が議論していたのは一羽の雛をどう生かすかだった。三十年後、二人が考えることになったのは、日本の動物園という「箱舟」にどの種を残すかだった。
規模はまったく違う。だが問いは同じである。限られた条件のなかで、どうすれば動物を次の世代へ残せるのか。
なお、その後、佐藤自身もJAZA生物多様性委員長を務めている[31:1]。ただしこれを「日橋から佐藤への継承」と書くことはできない。確認できるのは、日橋が委員長・佐藤が副委員長という時期があり、後に佐藤が委員長を担った、という役職上の連続性だけである。誰が誰を指名したかを示す資料はない。
5-6. 最後には同じ園へ
二人の接点は、委員会だけにとどまらなかった。
二〇二二年時点で、日橋は那須どうぶつ王国の「教育・普及啓発プロデューサー」として確認される[4:8]。同じ時期、佐藤は那須どうぶつ王国と神戸どうぶつ王国の園長だった[3:3]。
一九八〇年代には、別々の園から互いの飼育技術に意見を述べ合っていた。二〇一〇年代には、同じ委員会で保全政策を担った。二〇二〇年代には、同じ組織の内部で仕事をしている。
二人の能力は、並べてみると補完的に見える。佐藤が持っていたのは飼育、繁殖、展示、トレーニング、経営、施設運営。日橋が持っていたのは教育、普及啓発、国際的な園館比較、コレクションプランニング、希少種保全、園館ネットワークである。
同じ園で働いた背景に、長年の信頼関係や意識的な役割分担があった可能性は考えられる。しかし、「佐藤が日橋を那須へ呼んだ」「二人が役割分担を合意した」といった因果を示す資料は確認できない。ここでは、結果として二人が同じ組織に集まったという事実だけを記録しておく。
5-7. 佐藤哲也の死と、日橋一昭が残った場所
二〇二四年三月、佐藤哲也が死去する[24:1][32:1]。
その後、日橋は同年四月には神戸どうぶつ王国の園長として[33]、七月には那須どうぶつ王国の園長として確認される[34]。
同じ年、神戸で開催された飼育野生動物栄養研究会では日橋が大会長を務め、プログラムの冒頭に「佐藤哲也氏 業績紹介」が置かれた[35]。
さらに、マヌルネコの繁殖研究では、佐藤と日橋の名前が同じ研究成果の発表者群に並んでいる[36]。ただし発表時点は佐藤の死後であり、「生前に共同発表した」とは書けない。
ここは感傷的な後継者物語にしないでおきたい。確認できる事実だけを並べれば十分である。
- 佐藤の存命中から、日橋はどうぶつ王国の側で働いていた
- 佐藤の死後、日橋が両園の園長として確認される
- 同じ研究コミュニティで、佐藤の業績が振り返られた
- 二人の名前が、同一の研究成果の上にも残った
四十年前には別々の園にいた二人の名前が、最後には同じ動物園と、同じ研究成果の上に並んだ。
5-8. 「良いライバル」だったのか
ここで、二人の関係そのものを考えたい。
まず断っておくと、本人たちが互いを「親友」「ライバル」「師弟」と表現した資料は、現時点で確認できていない。したがって、関係性を断定することはできない。
しかし、次の事実は確認できる。
- 一九八〇年代半ばから、技術的な異論を直接言い合っていた[1:14]
- 同じ研究会・専門職コミュニティに長期間所属した[9:3][27:3]
- 双方が同じ研究会の執行側を経験した[23:2][28:4]
- JAZA生物多様性委員会で、委員長と副委員長として仕事をした[2:2]
- 後年は同じ動物園グループで働いた[4:9][3:4]
- 日橋は佐藤からの四十年近く前の忠告を「良い思い出」として回想している[1:15]
これらから言えるのは、次のことである。
互いの専門性を知り、率直に異論を言い合え、何十年も同じ問題を追い続けた同世代の専門家だった。
そのうえで、あえて言えば——「良いライバルだった」と呼びたくなる関係である。ただしそれは本稿の読み方であって、資料が保証する事実ではない。
5-9. 二人の人物史から見える日本の動物園
最後に、人物史を業界史へ広げておきたい。
施設の名前だけを追うと、埼玉県こども動物自然公園、群馬サファリパーク、姫路セントラルパーク、那須どうぶつ王国、神戸どうぶつ王国は、それぞれ別々の歴史を持つ別々の組織に見える。
県立園と民間サファリと観光施設では、経営主体も設立経緯も違う。
だが、そこで動いている人を追うと、その間を技術と思想が移動していることがわかる。
若い飼育員が失敗する。別の園の飼育員が口を出す。研究会で発表する。大学の研究者と検証する。別の施設へ技術を持っていく。会社を作って他園へ提供する。JAZAで制度化する。人が異動して、別の園へ知識を運ぶ。
この繰り返しによって、個人の経験知が園の知識になり、やがて業界全体の知識に変わる。
日橋一昭と佐藤哲也の四十年は、日本の動物園史を、建物や経営主体の歴史としてだけでなく、専門職の移動・交流・競争・共同作業の歴史として読む必要があることを示している。
希少種保全も、ある日突然、制度として現れたわけではない。
その前には、一羽の雛を前にして「その餌で本当に大丈夫か」と言い合っていた飼育員たちがいた。
6. 雛に何を飲ませるか、箱舟に何を載せるか
6-1. 二人は同じ人ではなかった
ここまで四十年を追ってきたが、最後に一度、二人を分けておきたい。似た結論に到達したからといって、同じ人物として畳んでしまうと、この人物史の意味がなくなるからである。
日橋一昭の専門性は、扱う単位を大きくしていく方向へ伸びた。
個体 → 種 → 園館ネットワーク
一羽のオオバタンの雛から始まり、コウノトリの野生復帰という数十年単位の構想に関わり、マナヅルの国際血統登録で世界中の飼育個体群を一つの集団として見るようになり、最後には日本の動物園全体で何を飼うかというコレクションプランニングに至る。彼が越えていったのは、園の壁であり、国境だった。
佐藤哲也の専門性は、扱う階層を上げていく方向へ伸びた。
個体 → 飼育組織 → 会社 → 動物園経営 → 業界政策
二十代で飼育部門の責任者になり、研究会を組織し、他園の困りごとを引き受ける会社を作り、園を経営し、経営難の施設を再生し、最後には業界全体の保全制度に関わる。彼が越えていったのは、決裁権限の壁である。
同じ問題を解くために、片方は横へ、片方は上へ動いた。
6-2. それでも同じ問いに戻ってきた
にもかかわらず、二人が最後に共有していた問いは、同じ一文で書ける。
限られた条件のなかで、どうすれば動物を次の世代へ残せるのか。
一九八〇年代、その「限られた条件」とは、確立した飼料も栄養データもない状況で、一羽のオウムの雛に何を飲ませるか、という問題だった。
二〇一〇年代、その「限られた条件」とは、限られた数の日本の動物園と、限られた飼育スペースの中に、どの種を載せるか、という問題だった。日橋はこれを「箱舟」と呼んだ。
「雛に何を飲ませるか」から、「箱舟に何を載せるか」へ。
規模は桁違いに大きい。判断の材料も、関係する人間の数も、まったく違う。しかし問いの構造は変わっていない。手に入るものは足りず、時間も足りず、それでも次の世代へ渡さなければならない。
二人のキャリアは、この同じ問いを、扱える最大の単位まで押し広げていった記録として読める。
6-3. 動物園の専門性は、人の中を移動する
第5章で見たとおり、二人の四十年をつないでいたのは、施設ではなく人の動きだった。
若い飼育員が失敗する。別の園の飼育員が口を出す。研究会で発表する。大学の研究者と検証する。会社を作って他園へ提供する。異動して別の園へ知識を運ぶ。委員会で制度にする。
この経路をたどると、知識の所在が段階的に移っていくのがわかる。
個人の経験 → 園内の知識 → 研究会の共有知 → 検証された知見 → JAZAの制度 → 業界の標準
動物園が技術を持っているように見えるとき、最初にその技術を持っていたのは、たいてい特定の人間である。獣舎は技術を覚えない。組織図も覚えない。覚えるのは人であり、人は移動する。
だとすれば、日本の動物園史は、施設の歴史であると同時に、専門職の移動史でもある。どの園がいつ何を建てたかという年表の裏側に、誰がどこで何を覚え、それを誰に話したか、という別の年表がある。
6-4. 「強い個人」が制度になるまで
ただし、ここで二人を英雄にしてしまうと、話が逆に単純になる。
動物園は、多数の飼育員、獣医師、研究者、行政担当者、設計者、経営者によって成り立っている。日橋と佐藤が日本の動物園を変えた、という書き方は事実に反するし、二人の同僚たちに対しても失礼だろう。
それでも、この二人の四十年が示していることがある。
ある分野を異常に深く掘る個人が、まず新しい技術や発想を作る。しかしそれだけでは、その人が現場を離れた瞬間に消える。技術が消えないためには、他者へ渡され、検証され、共有可能な形式に翻訳されなければならない。
つまり、こういうことになる。
強い個人がすべてを作ったのではない。個人の専門性を、組織や業界が共有可能なものへ変換できたとき、それが動物園の能力になる。
日橋が自分の育雛法を「上手く行ってんだから問題なし」と守った若い飼育員から、最新の栄養研究を取り入れるべきだと書く人物へ変わっていったこと。佐藤が自分の繁殖技術を抱え込まず、大学研究者を巻き込んだ研究会を作ったこと。二人の四十年で最も重要なのは、おそらくこの二つの変換である。
制度は、個人の専門性を保存するための器なのだ。
6-5. 最後はオオバタンへ戻る
四十年前。
一羽のオオバタンの雛を前にして、一人は「この方法で育っている」と言い、もう一人は「その餌は生理的に危険だ」と言った。
どちらも完全な答えを持っていたわけではない。飼料はまだ市販されておらず、種ごとの栄養データも整っていなかった。二人が持っていたのは、それぞれの現場で得た確からしさだけである。
その後、飼料は市販されるようになり、栄養研究は進み、飼育技術は書かれたものになった。二人自身も、飼育員から園長へ、園から研究会へ、研究会からJAZAへと役割を変えていった。
しかし、問いそのものは残った。
どうすれば、この動物を次の世代へ残せるのか。
その問いを、一羽から一種へ、一園から日本全体へ広げていった四十年が、本稿が追ってきたものである。
日本の動物園に希少種保全の制度がある。そう書けば一行で済む。
だがその制度の背後には、かつて目の前の一羽をめぐって言い争っていた、具体的な人間がいた。
脚注
本稿における未検証事項
本文中でも推定・未確認である旨を明示しているが、整理して再掲する。
- 佐藤哲也の正確な生年月日——2024年3月に67歳で死去したことから1956〜57年生まれと推定。確定資料は未取得。
- 佐藤哲也の正確な入職年——2015年時点のプロフィールにある「動物関連事業経験37年」からの逆算で1978年前後。群馬サファリパークの周年誌等での確認が望ましい。
- 1993年姫路大会への日橋の出席——佐藤の発表は公式記録で確認できるが、日橋が同大会に出席・発表したかは未確認。
- 日本動物園水族館教育研究会 副会長の在任年度——二人が同時在任だったのか、順に務めたのかは未確認。
- JAZA生物多様性委員会における具体的な共同案件——委員長/副委員長という役職以外に、どの案件で共同作業をしたかは特定できていない。
- 日橋が那須どうぶつ王国へ参加した経緯——誰の発案か、どのような役割分担だったかを示す資料は未確認。本文では因果を書いていない。
- 二人が互いを直接語った資料——オオバタンの回想以外に確認できていない。
☕️よかったらコーヒー一杯。 https://buymeacoffee.com/mink_obs
著:霧星礼知(min.k) / リサーチ・構造支援:Claude Sonnet 4.6、ChatGPT / AI-assisted / Structure observation
For international readers
This is a comparative biography of two Japanese zoo professionals, Kazuaki Nippashi (b. 1953) and Tetsuya Sato (d. 2024, aged 67), whose careers span roughly forty years of change in Japanese zoos. In the mid-1980s Nippashi was hand-rearing a Moluccan cockatoo chick at Saitama Children's Zoo when Sato, then head of animal husbandry at Himeji Central Park, warned him that his milk-based formula was physiologically risky. Nippashi ignored him. Three decades later the two sat on the same JAZA biodiversity committee — chair and vice-chair — deciding which species Japanese zoos should collectively preserve; by the 2020s they worked within the same zoo group.
The article argues that Nippashi expanded his expertise outward (individual animal → species → inter-institutional network), while Sato expanded his upward (individual animal → husbandry department → company → zoo management → industry policy). Rather than a story of friendship or rivalry — neither is documented — it treats their careers as a window onto how individual husbandry knowledge in Japan migrated into study groups, academic verification, and finally institutional conservation policy. Zoo history, it concludes, is not only a history of facilities but of the professionals who carry knowledge between them.
Keywords
Japanese zoos, zoo history, species conservation, captive breeding, hand-rearing, Kazuaki Nippashi, Tetsuya Sato, JAZA, collection planning, studbook, breeding loan, zoo education, Nasu Animal Kingdom, Kobe Animal Kingdom, Saitama Children's Zoo, Himeji Central Park, professional knowledge transfer, comparative biography
動物園, 日橋一昭, 佐藤哲也, 希少種保全, 人工育雛, オオバタン, 飼育技術, 動物園教育, 遠藤悟朗, JAZA, 生物多様性委員会, コレクションプランニング, 血統登録, ブリーディングローン, 那須どうぶつ王国, 神戸どうぶつ王国, 埼玉県こども動物自然公園, 姫路セントラルパーク, 比較人物史
日橋一昭「2024年度大会参加のお礼」飼育野生動物栄養研究会、2024年。https://wildlifenutrition.com/news/entry-167.html (一次資料:本人による回想。本稿の核資料) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
日本動物園水族館協会 種保存関連会議資料(日橋一昭=生物多様性委員会委員長、佐藤哲也=同副委員長)。https://www.ezooko.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=4&flid=7540&id=2084&sub_id=1 (一次資料:協会公式資料) ↩︎ ↩︎ ↩︎
「動物園・水族館のこれからを考える」佐藤哲也プロフィール、READYFOR、2023年2月21日。https://cfevent.readyfor.jp/animal/230221 (準一次資料:本人登壇時のプロフィール) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
「『生き物たちの地球』写真展開催記念動画 前川貴行×日橋一昭」フジフイルム スクエア、2022年。https://fujifilmsquare.jp/interview/220729_01_02.html (準一次資料:本人監修のプロフィール) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
野村卓ほか「動物園における教育的機能の展開と教育領域の再検討」『ESD・環境教育研究』第23号、2021年。https://hokkyodai.repo.nii.ac.jp/record/8934/files/ESDkankyokyoiku_23-1_1-10.pdf (二次資料:戦後動物園教育史の研究) ↩︎
遠藤悟朗「子ども動物園の創造(社会教育実践史42)」『月刊社会教育』第15巻第12号、1971年12月、40–48頁。https://cir.nii.ac.jp/crid/1520010380700045696 (一次資料:本人執筆) ↩︎
遠藤悟朗『子ども動物園』フレーベル館〈フレーベル新書21〉、1978年。https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA39799329 (一次資料:本人著作) ↩︎
「発祥と経緯」日本動物園水族館教育研究会。https://jzae.jp/keii/ (一次資料:団体自身による沿革記録) ↩︎ ↩︎
高橋宏之「生涯学習社会における動物園教育の取り組みについて(Zoo Education in the Lifelong Learning Society)」『博物館学雑誌』第25巻第1号、全日本博物館学会、1999年、1–17頁。https://museology.jp/journal/25-01/25-01_pp01-17.pdf (二次資料。ただし研究会発表記録の引用部分は準一次資料に準ずる) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
「佐藤会長逝去について」野生動物保全繁殖研究会、2024年。https://arrwc.org/?p=363 (一次資料:団体自身による記録) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
成島悦雄「動物園人 佐藤哲也園長を偲ぶ」(コラム「こうしたい、これからの動物園」第2話)TONZAKOな世界、2024年。https://www.tonzako.com/archives/5325 (二次資料:同業者証言。人物像の補助として使用) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
環境省『平成25年度 第2回 動植物園等の公的機能推進方策のあり方検討会 議事録』2013年11月28日。https://www.env.go.jp/nature/report/h26-01/mat2_2.pdf (一次資料:本人発言の公式記録) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
村田浩一ほか編『動物園学入門』朝倉書店。日橋一昭は「動物の収集計画(コレクション・プランニング)」を担当。https://www.asakura.co.jp/detail.php?book_code=46034 (一次資料:本人執筆) ↩︎ ↩︎
「埼玉県こども動物自然公園について」公益財団法人埼玉県公園緑地協会。https://www.parks.or.jp/sczoo/guide/000/000193.html (一次資料:管理団体による公式沿革) ↩︎
「こども動物自然公園」埼玉みどりのポータルサイト、埼玉県。https://midorinoportal.pref.saitama.lg.jp/ (一次資料:県公式の沿革資料。1978年当時の原計画書そのものではない点に注意) ↩︎
佐藤哲也プロフィール、2015年国際会議資料、KNOTS。https://knots.or.jp/2015/01/profile/ (準一次資料:本人提供プロフィール) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
佐藤哲也 講師プロフィール、TCA東京ECO動物海洋専門学校。https://www.shingakunavi.ne.jp/専門学校-進学/TCA東京ECO動物海洋専門学校/講師-教授/佐藤-哲也/ (準一次資料。URLは執筆時点の公開ページを再確認のこと) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
「干支にまつわるエトセトラ イヌ科動物たちの秘密」講師プロフィール、三鷹ネットワーク大学。https://www.mitaka-univ.org/kouza/C1754000 (準一次資料) ↩︎ ↩︎
「日橋一昭さんのプロフィール」ほぼ日の学校。https://gakkou.1101.com/online/teacher/kazuaki_nippashi (準一次資料) ↩︎
「第1回 日橋一昭氏」愛媛県立とべ動物園、2018年5月21日。https://www.tobezoo.com/tobetopics/2018/05/21/20180521113742-6a599ca33380f50b43c3444d521eaef5c85d1d67.pdf (準一次資料。PDFは画像形式) ↩︎
日橋一昭「関東エコ・ネット推進協議会 委員のみなさんからのメッセージ」国土交通省関東地方整備局。https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000871870.pdf (一次資料:本人寄稿) ↩︎
畑山望「埼玉こども動物自然公園、念願のニホンコウノトリのヒナ3羽誕生」『リセマム』2015年5月27日。https://resemom.jp/article/2015/05/27/24765.html (二次資料:報道) ↩︎
『やってみたい総合学習2 ミルク——メエちゃんが学校にやって来た』著者紹介(萩原由紀子・日橋一昭ほか)、大月書店。https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784794507938 (準一次資料:刊行時点の著者略歴) ↩︎ ↩︎ ↩︎
佐藤哲也氏 追悼記事、日立市かみね動物園公式ブログ、2024年5月26日。https://kaminezoo-officialblog.hatenablog.com/entry/2024/05/26/144801 (二次資料:同業者による追悼) ↩︎ ↩︎
森田哲夫「希少動物の繁殖を支える科学の力」(コラム「動物園人でなくて恐縮です」第1話)TONZAKOな世界。https://www.tonzako.com/archives/5553 (二次資料:研究者による回顧) ↩︎
動物繁殖学研究室 研究業績(学会発表)、岐阜大学。https://www1.gifu-u.ac.jp/~lar/contents/lar_meeting/lar_meeting.html (一次資料:研究室公式記録) ↩︎
「研究会記録」日本動物園水族館教育研究会。第34回研究会(1993年、姫路セントラルパーク)、大会テーマ「保護のための会話」、佐藤哲也「動物を利用したアトラクションによる自然・動物保護の啓蒙について」。https://jzae.jp/kiroku/ (一次資料:団体公式の大会記録) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
「屋内型ふれあい動物園(インサイド ズー)」プレスリリース、ナムコ、2001年7月。https://www.bandainamcoent.co.jp/corporate/press/namco/2001/jul/press05-02.html (準一次資料:当時の本人肩書きの公表記録) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
「株式会社どうぶつ王国 様」導入事例・佐藤哲也インタビュー、TKCグループ、2015年1月。https://www.tkc.jp/fx4/case/201501_01 (一次資料:本人インタビュー) ↩︎ ↩︎ ↩︎ ↩︎
「こだわるのは『野生の姿』」MBS/TBS NEWS DIG、2023年。https://newsdig.tbs.co.jp/articles/mbs/485955?display=1 (二次資料:報道。人物像の補助として使用) ↩︎
「JAZAの組織」公益社団法人日本動物園水族館協会。https://www.jaza.jp/about-jaza/structure (一次資料:協会公式。佐藤哲也の生物多様性委員会委員長在任は2023年度の役員・委員名簿で確認できる。当該年度名簿PDFの直接URLは公開時点で再確認のこと) ↩︎ ↩︎
「佐藤哲也園長のお別れ式会に参列しました」ツシマヤマネコ保全関係者ブログ、2024年5月25日。https://yamaneko2010.jimdoweb.com/2024/05/25/佐藤哲也園長のお別れ式会に参列しました/ (二次資料:同業者による追悼) ↩︎ ↩︎
プレスリリース、átoa公式、2024年4月23日(神戸どうぶつ王国 園長:日橋一昭)。https://atoa-kobe.jp/press/archive/2024/549.html (一次資料:公式リリース) ↩︎
那須どうぶつ王国 公式note、2024年7月17日(園長:日橋一昭)。https://nasu-oukoku-zoo.note.jp/n/n3fad2972ed3d (一次資料:公式発信) ↩︎
2024年度大会(神戸)プログラム、飼育野生動物栄養研究会。大会長:日橋一昭、「佐藤哲也氏 業績紹介」。https://wildlifenutrition.com/news/media-download/134/ (一次資料:団体公式資料) ↩︎
マヌルネコ繁殖に関する研究成果(井戸優海・佐藤哲也・日橋一昭・楠田哲士ほか)、KAKEN。https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-24K01780/ (一次資料:研究成果データベース) ↩︎